平成シニア物語  春隣  1 [平成シニア物語]

 陽が昇り始めた頃圭吾はいつものように家を出た。約一時間のウォー
キング。
 三年前妻のゆきを亡くして一人になってから始めた。
一年位は悲しくて、寂しくて身の置きどころもないほど辛く、よく泣いた。
雨の日や、人と会うこともなく過ぎた一日の夕暮れ時など、男のくせにと
思いつつゆきの椅子に座って涙を流した。
 歩きながらもよく泣いた人に会っても帽子を目深にかぶっているので
気づかれることもなかった。泣いていれば何故か心が落ち着くこともあ
った。
 圭吾が働き続けた製紙会社を定年退職して、さあこれからという時
二つ違いのゆきは交通事故で、あっけなく逝ってしまった。
 その朝二人でコーヒーを飲みながら、今まで仕事一筋できたので、
これからは二人で第二の人生を楽しもうと話したところだった。

 圭吾は二十八の時上司に紹介されてゆきに会い、二人はすぐに意
気投合して結婚した。
 ゆきは三人姉妹の真ん中に育ち、心根の優しい女性だった。
 二人のこれまでの人生は穏やかで、二人の男の子にも恵まれ、今
はそれぞれ結婚して、幸せな家庭を作っていて孫も三人いる。
 お互いの両親を見送り、圭吾とゆきはこの円満な人生がいつまでも
続くと信じていた。
 圭吾はゆきがいなくなって初めて自分達夫婦が、いつの間にか空気
のような存在だったのだと悟った。空気がなくては人は生きていけない。
突然崩れ去った圭吾の平穏な生活は、もう二度と取り戻せないのだ。

 もう三十分は歩いたろう。辺りはすっかり明るくなって、風は冷たい
が今日もいい天気だ。
 公園の水飲み場まで来ると、にこにこ笑顔で草子が待っていた。
「お早うございます。」大きな声で挨拶をする。「はいお早う。」圭吾も元
気に挨拶を返す。
 半年ほど前二人は同じ時間にここで会うお互いに気づき、草子が先
に声をかけた。この公園を出て自宅に戻るまでの三十分、二人の家の
方角が同じだったことにも圭吾は不思議な縁を感じた。そしてごく自然
に親しくなった。
 歩いているうちにお互いのことも話すことになり、草子が独身でずっと
勤めた会社もあと数年で定年退職になることも知った。
 郊外の老人施設に父親が健在で、一人っ子の彼女がその面倒をみ
ていると聞いた時は、そんな風に見えない草子の明るさを、不思議に
思った圭吾だった。
 草子は突然妻を亡くして落ち込んでいる圭吾の気持ちを思ってか、
そういう話からは遠い、自分の趣味の絵手紙や音楽の話をした。
この頃では 二人に特別の感情はなかったが、お互いの存在がお互
いを元気付けていることは、それぞれが実感していた。
 でも朝のウォーキング以外に二人は会うこともなく半年が過ぎた。
 圭吾はいつか草子を食事にでも誘ってみようかと思い始めていた。
 しかし、仕事と父のことで忙しい草子を思って、今までは遠慮していた。
圭吾はベンチに座ると草子に言った。「草子さん初めて会ってもう半年
になりますね。貴女の都合のいい日に一日、どこかへ出かけませんか。
いい空気吸って美味しいものでも食べたいなあ....とこの頃僕思うように
なったんですよ。」
 じっと聞いていた草子の顔がぱっと明るくなった。「ええ? 本当です
か。嬉しい。そんなこと考えたこともなかったから。」そう言って笑いなが
ら立ちあがると圭吾に丁寧に頭を下げた。その様子がおどけているよ
うに見えて圭吾は変な気がした。
「からかわないで下さい。」草子が強い声で言った。さっきの笑顔は消
え白い冷たい顔がそこにあった。
 圭吾は驚いた。何か言おうとする彼を制して草子が言った。「柴田さ
ん私のことが可哀そうになったのでしょう。女一人で何の楽しみもなく
生きて、こんなおばさんになってしまった私のことが。」圭吾はあっけに
とられて草子を見た。そんな風に思ったことは一度もなかった。
若々しくて知的で女性としての魅力いっぱいだったからこそ、今日の
この言葉になったのに。
 考えてみれば圭吾の職場にも独身女性は何人かいたが中には年を
経るにつれて自分の殻に閉じこもり、若い頃の素直さがなくなったよう
に感じた人も確かにいた。
「草子さん残念だなあ。僕があなたのことをそんな風に思っている...と
ほんの少しでもおなたが感じていたとしたら、僕本当に情けないです。」
 聞いていた草子の顔がくしゃくしゃになり、両手でおおった。ごめんな
さい喘ぐように言うと倒れこむようにベンチに座りこんだ。
 太陽がすっかり顔をだし辺りの木々の間から、清々しいあさの光が冷
気とともに溢れていた。
 しばらくして草子は顔を上げるとまっすぐに圭吾をみた。
「ごめんなさい。私って本当にいつの間にこんな嫌な人間になってしま
ったのでしょう。自分でも気がつかない内に世間を拗ね、自分本位で人
の善意がわからない最低の人間に。」「そんなことないですよ。でもさっ
きは少し感情的になっていたかな」圭吾はそう言ってやさしい眼差しを
草子に向けた。
 これまでの草子に圭吾の知らないどんな辛いこと、悲しいことがあっ
たのだろう。この生きにくい社会を一人で頑張り、親の面倒も見て来た
のだ。多少ひがんでまったとて不思議ではない。一見元気で何の屈託
もなさそうな草子の心の奥を見てしまったような気がして圭吾は胸が
痛んだ。
「今朝のことはこれでお終い。さっきの話だけどどうですか」「ごめんな
さい私本当はとても嬉しくて。よろしくお願いします。」「はい。それでは
決まりですね。行く先は僕に任せて下さい。明日の朝またここで。」
 二人は立ちあがった。いつもより三十分ほど遅くなった帰り道を二人
は幸せな気持ちで歩いた。
 圭吾は家に帰りつくと、いつものように仏壇の前に座った。蝋燭に灯
をともし、線香を焚く。かすかな香りがふっと流れる。遺影のゆきは今
日もやさしく微笑んでいる。圭吾はいつもより長く手を合わせていた。
「お母さんお早う。今日も元気に歩いてきたよ。もうすぐ春が来そうな
いいお天気だ。」圭吾は立ちあがりかけてもう一度座りなおした。
「それから一つ報告。今朝も草子さんに会った。そして一日どこかへ
遊びに行きましょうと誘ったんだ。彼女も快くОKしてくれたからね。
行っていいよね。」心の中で呟きながら圭吾の想いは少し複雑だった。
 真面目な圭吾は結婚してからはゆき一筋、お互いいい夫婦だと思
っていた。今もそう思っている。だからゆきは草子のことも、きっといい
友だちが出来てよかったと理解してくれていると思いたかった。


 
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コメント 5

あかね

このストーリィを読ませてもらっても思います。
今どきって若いひとよりも、中年以上のほうが純情だったりしますよね。
まあ、中にはどあつかましいおじさんもおばさんもいますが。

圭吾さんも草子(そうこ、さんですか?)さんも、心の美しいひとなんだなぁ。
配偶者をなくしてこんなにも悲しむ男性もいいですよね。ゆきさんがうらやましいです。

私としてはそれでもやはり、草子さんの気持ちがよくわかります。こんなふうにひがみっぽくなってしまう気持ちと、ちょっとうぬぼれてみたい気持ちがせめぎ合って、そんな図々しいのは駄目、私なんか……が出てしまった感じに思えました。

by あかね (2014-02-02 12:21) 

リンさん

久しぶりの小説ですね。
待ってましたよ^^

草子さんは、恋をしてますね。だから気軽に誘いに乗れなかったのでしょう。
亡くなった奥様は、さぞかしヤキモキしてることでしょう。
圭吾さんは友達のつもりでも、草子さんはどうなのかしら。ああ、私もヤキモキしてきちゃった(笑)

by リンさん (2014-02-03 17:13) 

dan

深く読んで頂いて、色々な角度からの感想とても
嬉しいです。
人物がいつも私好みになってしまうのが欠点だと
分かっているのですが。勉強不足です。
有難うございました。
by dan (2014-02-03 17:39) 

dan

上記はあかねさんへのコメントです。
ごめんなさい。あわてん坊のdanより
by dan (2014-02-03 17:47) 

dan

リンさん

ドキドキして下さって嬉しいです。
やっと書いたのに、こちらはヒヤヒヤ。リンさんの才能
が羨ましいです。
草子さんはやっぱり恋をしているのでしょうか。
有難うございました。
by dan (2014-02-03 17:53) 

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