七月十三日 金曜日 [エッセイ]

 青い空も照り付ける太陽のギラギラした光もあの日と変わらない。
ただ流れた年月だけがいかにも長くて、こんなにもと今更のように思う。

 四十五年前の七月十三日金曜日、父が五十九歳で亡くなった。
三年前に初期の胃がんが見つかり「手術は大成功でした。」と執刀した医師が太鼓判を
押してからたった三年。
 職場の花見の宴席で倒れたが検査の結果貧血ということになり、入院をすることもなく
治療しながら仕事をしていた。
 私はこれですっかり安心して胸をなでおろした。
この世で誰よりも大好きで心から尊敬できる父だったから。
 六月の父の日のプレゼントのゴルフボールを持って行ったとき、何だか元気がなく
あまり嬉しそうな顔をしなかったことが、心にひっかかった。
 ゴルフ大好きでお世辞にも上手とはいえなかったが、弟や妹たちとよくでかけていたから。
 それから間もなく体がだるいと言い入院をすることになった。
一週間ぶりに見た父は車にのるのも辛そうに弱っているように見えた。
 それから三週間、入院してからは割に元気で、私たち一家は毎日のように様子を見に行った。
 七月十二日の夜見舞った時父が、
「今夜は泊まって行きなさい。」と大きな声で言った。
私は夫と顔を見合わせて
「泊まれと言っても四人も?お母さんもいるし」と言うと
「そしたらいいよ。」呟くように言って寂しそうに笑った父の顔を私は忘れることが出来ない。
 翌早朝父の様子がおかしいと、母からの電話に夫と二人で飛んで行った。
 その時何気なく見た日めくりカレンダーの七月十三日 金曜日という文字がとても嫌だった。

 母、私たち子供、孫が見守るなか十時五分父は安らかに旅立った。

 私が駆けつけた時「今朝は少し体がだるい」と話も出来たし先生も緊急事態とも言われず
弟たちと職場に「少し遅れます」と順番に公衆電話をかけたくらいだったのに。

 その日から私は十三日の金曜日が嫌というより恐ろしくなった。
このことを話題にしている友などに
「そんな迷信みたいなこと、馬鹿みたい」
 と、もともと迷信とかゲン担ぎをまったく気にしていなかった私だった。

 そうそうあの日「太陽にほえろ」の一番人気だった刑事も殉職したんだった。

 七月十二日の夜病室の付き添い用の和室、四畳半もあったのだし真夏のことでお布団も
いらなかったのだから、泊まればよかった。仕事や子供の学校のこと、自分たちの都合だけ
考えていた私。
 父の最後の願いを、それも簡単なことなのにそれを聞かなかったことが情けない。
毎日行っても泊まれなど言ったことなかったのに。
 ずっとこのことは私の中で悲しい思い出になっている。夫ともこの話はしたことがなかった。
きっと彼も私と同じ思いだったのだろう。

 四十五年目の七月十三日 金曜日 私の結婚式の日の父母と並んだ嬉しそうな写真を
朝から何回も見ている自分がおかしい。
 
 今頃天国で三人で私の話をしているのだろうと思うと心が逸る。ああ。
 



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リンさん

59歳で亡くなるなんて、早すぎますね。
今の時代なら、きっと完治していたのでしょう。
お父さまは、何か感じるものがあって「泊っていけ」と言ったのですね。
私は、あまりにも急だったので父の死に目にはあえませんでしたが、86歳まで生きてくれたので、思い出もたくさん出来ました。
by リンさん (2018-07-14 19:18) 

dan

有難うございます。
リンさんを羨む気もありますが運命ですよね。
私も子供たちのためにも頑張らなければと思っています。


by dan (2018-07-14 23:06) 

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