一筋の道 [短編]

 梅雨の晴れ間の落ち着いた陽の光が足元にあり志津は歩を緩めた。
郊外電車を降りてどの位歩いたのだろう。
 すぐ目の下に鈍い水色のゆったりした海が見える。歩いている県道の右側は丘で幾種類もの
灌木が茂っている。
 時々通る車ものんびりと走っていて志津はこの田舎加減が気にいっている。
二十分に一回位来る三両編成の朱い郊外電車も、ここから見ると結構下の方を走っている。

  
 志津は少し笑って「はいやって来ましたよ。祐さんの好きな散歩道」この胸にいる人に話しかける

 ずっと昔、初めて二人で歩いた道。
海は今よりもっと大きくて広々とゆったりしていた。あの日、祐に誘われるまま志津はなんとなくついて来た。
 
 
 四月短大を出て志津が入った銀行で、新入女子行員の指導係の助手のようなニ、三人の先輩の
中に祐がいた。
 希望に目を輝かせ、新しい仕事に入る女性たちの集まりの中で、祐はすぐ志津が気になった。
 何よりも真剣に挑むような大きな目が他の人とは違った。
二週間の研修期間が終わった日、銀行の通用門の外で待っていた祐は、志津を呼び止めた。
「お疲れ様でした。コーヒでも飲みにいきませんか。」
 志津は一瞬何のことだろうと戸惑った。彼を意識したことはなかったから。
「迷惑でなかったら行きましょう」真っすぐに志津を見つめるその目は優しくて真剣だった。
 嫌な感じはしなかったから志津はこっくり頷いてしまった。
 
 二人は街の喫茶店に行った。
 志津は初めての喫茶店。重いドアを押すと店内はほの暗く静かな音楽がながれている。
目が慣れてくると人々が、ゆったりした椅子にくつろぎ談笑しているのが見えた。
 祐は窓際の席に腰を下ろして、ぎこちない志津を見ている。おどおどしたその仕草さえ可愛いい。
「コーヒでいい?」「はい」しばらくしてコーヒが来ると辺りにいい香りが漂い志津は夢の国に
いるような、なんとなく楽しい気持ちになってきた。
 「お砂糖は二つで良いですか」「はい」
 祐はカップを鼻の辺りに持っていき香りを楽しむような仕草でじっと志津をみている。
そして砂糖を入れずにコーヒーを一口飲んで、小さい溜息をついた。
 その様子がいかにもこの場の雰囲気にあって祐がとても大人に見えた。

  志津は職場の先輩ということ以外、祐のことは何も知らない。
 私どうしてここにいるのだろう、志津は可笑しくなってふっと笑った。
「川野さん、何か可笑しいことでもありますか」
「いいえ、でも私宮田さんのこと名前しか知らないのに、どうして今ご一緒しているのかと」
「僕がお誘いして貴女が来て下さった、そういうことです」
「でも、どうして」
「僕は川野さんと親しい友だちになりたいと思って。貴女が素直に僕の言う通りにして下さって
満足です。嬉しいです。」
 子供のような素直な笑顔だった。
志津も、もしかして祐と同じ気持ちになりかけているのではと思った。そしてそれが嫌ではなかった。胸の奥の方が少しほっこりしたような気になって、祐をみてにっこりしてしまった。

 ある日祐が海を見に行こうと志津を誘った。この祐の好きな散歩道へ初めて来た日。
 
 あの日から何度季節が巡ったのだろう。
 
 祐は志津を友人から少し親密な友人へ、三か月もすると恋人になりたい、そして恋愛の行きつく所は結婚だと幼い志津を慌てさせた。
 僕はもう決めていると自分の決心の固いこと告げ、志津に早く決意をせよと。猪突猛進押して押して押しまくった。
 志津も彼の気持に応えたいと思った。祐を愛する気持ちは決して祐に負けてはいなかったから。

 結婚するまでの三年間二人は何事につけても真剣に話し合った。
何より大切なのは思想や、社会観、世界観の一致だと説く祐。
 相互批判と自己批判が出来るか、生き方など人生の同伴者として大丈夫か。
同じ本を読み議論し合う。最初は考え方に相違はあっても納得いくまで話し合って、握手。
 
 そして世の中の恋人たちで、こんなにお互いに厳しい二人はいるのだろうかとよく笑った。
 
 ただ祐と志津の間で相いれない点が一つだけあった。
愛情の表現の仕方だ。言葉でも態度でも志津の臆病さは普通ではなかった。
 愛している。好きだ。逢いたい。など言葉で言って欲しくない。気持ちで、心の中で想ってい
て欲しい。言わなくてもわかるのだから。

 祐は違った大胆で、言わなくては分からない。態度で示さなくてはと。愛している。好きだといつも志津の写真を持っている。

 そういう葛藤と戦いつつも三年後二人は結婚した。幸せだった。
 
そして二人が描いたとうりの人生を歩いた。

あれほど話し合って結婚した二人に、その後「こんなはずではなかった」と思ったことは一度も
なかった。それが二人の自慢でもあった。

 「小さくても子供にも人格はある」「親の都合で子供の人生を変えてはいけない」
 子育てに関する二人の信念。

 男女二人の子供に恵まれて、信念通り育てた。

 祐と志津は自分たちの考えが間違っていなかったことを、成人した二人が証明をしてくれたと
誇らしく思っている。
 「どこに出しても恥ずかしくない子供たち」と特に志津はそう自負している。
本人たちの希望通りの教育も出来た。二人で働いてぎりぎりの仕送りも苦しかったけれど
辛いと思ったことはなかった。
 今それぞれの道を歩む子供たちは祐と志津の誇りだ。勲章だ。

 それを見どけたように、自分の人生を全うしたと思ったのか祐は突然颯爽と消えた。
 
 体の半分、いいえ全部をもぎ取られたような痛み。悲しみ、辛さ、切ない想いをひとりで
抱え込んでしまうことになる志津のことを、考えてはみなかったのだろうか。
 
 
 祐さんの好きな散歩道。志津が来し方を振り返っている間に辺りは夕焼けに染まった。
 
  真っ赤に燃えて海に落ちていく夕日は、茜色の光を空と海にちりばめて、並んで歩く祐と志津二人の影をも金色に包んでしまった。

 「幸せだったよ。今も側にいて欲しいなんて贅沢いったら祐さんきっと笑うよね。」
 祐さんの好きな散歩道しばらくは、思い出と歩くしかないのだ。
 
 志津はきっと傍にいるはずの祐の温かい大きな手をしっかりと握りしめた。

 
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