嬉しい春の訪れ [エッセイ]

 思ったよりずっと早く春が来た。
今朝見たらもうさくらんぼの花が五つ六つ開いている。それなのにえひめあやめもまだ次々に
優しい紫の花をつけている。
 花たちをみて、つい笑顔になる自分の単純さに呆れつつ、それでも嬉しくて心が躍る。

 代わり映えのしない毎日が過ぎて行く一人の生活。何かしているので退屈をすることはないが
楽しいとか嬉しいとかいう感情とはほど遠いところにいる私。

 お茶を飲んでほっと一息ついても、思い浮かぶ友たちの顔は....
老々介護、病院通い、そしていくつかの高齢者施設の一人の部屋。春になっても二つ返事で
付き合ってくれそうな人はいない。年を取るということは寂しいことだと今更のように思う。

 それでも春めいた日差しに誘われていつもの散歩道を歩いていて立ち止まってしまった。
固まって生えている一面の枯芝の中に、淡い薄水色のいぬふぐりの花が、星が降って来たように
辺り一面に咲いている。

 私はつい胸の辺りが切なくなり、なにやら懐かしい想いがあふれた。
あれはもう半世紀以上前の話。
 毎年この花を見る度に思い出しては少し嬉しがっている私。そしてこの花が咲くのを心待ち
しているのに、今年は思いがけなく早く見つけた。
 
 夫は無類の花好きで、デートの時など花屋さんの店先で、道端で野原で、よく花の名前を教えてくれた。それなのに私が高校の時作って、先生に褒められたとぬふぐりを詠んだ俳句の話をしたら
いぬふぐりを知らないという。どこの道端にもいっぱい咲いていたのに。

 数か月経って二人で初めて行ったお城跡の草むらで、いぬふぐりの薄水色の花を見つけた。
そしてとても得意げに私はこれがいぬふぐりだと教えた。
何だか嬉しくて、いつも教えてもらってばかりいたので、少し態度も大きかった気もする。
 そしてその日から夫もこの花が大好きになった。二人の家の庭も早春には薄水色になった。

 春めいた風が私を現実に引き戻し、私はもう一度しゃがみこんでいぬふぐりの花をみた。

 春が来たのだから、もっと前向きに楽しい毎日を過ごそう。寂しがっても泣いても笑っても
一日は一日。
 事情のある友にも一度声をかけてみよう。みんなで楽しいこれからを歩こう。
 早春の光を全身に受けて上を向いて歩きだすと、なんとなく力が沸いて来た。

 もうすぐ弥生三月、お雛様を飾って花は桃の花。ちょっと嬉しくなってきた。













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雨水 春へ一足づつ [日記]

 久し振りの雨。それも終日降り続くという。
別に出かける予定もないので、気持ちもゆったりして自由だ。(いつも自由ではありませんか)

 庭の白梅が小さい花を開き始めた。お隣の白梅はもうとっくに咲いてとてもきれい。
種類が違うのだろう。我が家のはいかにも小ぶりで五つ六つなる梅の実も可愛らしい。

 さくらんぼの花も少し膨らんで春を待っているようだ。水仙はまだまだしっかり咲いているし
嬉しいことに今年も早々とエヒメアヤメの紫が優しい。

 夕方の一人歩きの時は道の端の草花たちと話をしながら一人笑い。
一日中口をきかない日の方が多いのだから、慣れたと言っても侘しい一人住いではある。  

 当市には独居老人で、福祉の恩恵に(例えば緊急時電話など)預かっていない人で希望すれば
週二回ヤクルトが頂ける。生存確認も兼ねていて「こんにちわ!お元気ですか」とヤクルトを
手渡してくださるのだ。
民生委員さんから進められ半年ほど前から私もその恩恵によくしている。

 私の担当の方はいつもにこにこと大きな声で「お元気ですか」ととても気持ちがいい。
大体約束のお昼頃。私も元気が出て玄関で少し立ち話をすることもあった。
小学生と保育所、二人も子供さんがいると聞いて若いの頑張っているなあと感心していた。
 ところが二月になって突然辞めることになりましたと、ご挨拶に見えた。
「ええ、残念ね、暇なときコーヒーでもと言っていたのに、また急にどうして?」
彼女はにこにこと
「三人目出来ちゃったのがわかって」
「素晴らしい。それならおめでとうと言うしかないね。」

 突然のことでお礼の何かと思っても.....小さなチョコレートのひと包みしかない。
それでも彼女は嬉しいととても喜んでくれた。私も
「有難う。元気でいい赤ちゃんが生まれますように」
短い間だったけれどこういう人たちが、訪ねてくれたら独居老人もきっと嬉しいと思う。

 その時次に来て下さる人も一緒で、これからは午前中に来て下さるという。

時間は特に気になる私だから気を付けているのだけどその時以来私は一度も彼女に会っていない。
「あれえ遅いなあもう十一時半だよ」と牛乳箱開けてみたらヤクルトが入っている。
一度だけ仕方なく留守にしたら手書きのメモは入っていた。
 
 昨日「みなさんお元気ですか」という福祉協議会とヤクルト販売が作ったらしい葉書くらいの
メモ用紙が入っていた。
これは月に一回配達証明のようなもので印鑑を押していた用紙だ。

 私は年甲斐もなく腹が立って来た。前の彼女とは話しながら感謝の気持ちをこめて印鑑を押していたのに。
これでは生存確認どころか顔もみたことがない。これでいいのだろうか。
配達する人によってこんなに違っていいのだろうか。
社会福祉協議会やヤクルト販売会社の真意は届いているのだろうか。

「ヤクルト貰っているのだから文句言わないでください」
悩ましい私がいる。

 雨は降り続いている。嫌なバアサン。こんなこと書くつもりなかったのに。
  
 雨音は春が来るよとささやいているように聞こえて嬉しいはずの私なのに。





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春立つ日 ひとつのさようなら [エッセイ]

 視界から銀色の車体が消えた。
思ってもみなかった感慨が体の中心からじわじわと全身に広がった。
 
 立春と聞いてもまだまだこんなに寒いのに。と毎年思ってきた。
今年は違った。朝からうらうらと優しい日差しがいっぱい降りそそぎ風もない。

 こんな日に愛用のバイクとお別れできるのは良かったと思う。
十三年間お世話になった。買い物にカルチャーに命日のお墓参り、毎日の乗らない日はなかった。

 しかしここ二、三年は遠出は止めて近くの電停まで五分とかスーパーまで五分とか。
それに弟たちや子供たちに「バイクは止めろ」耳にたこが出来る程言われ続けたし、自分でも
もう潮時だと思えた。
 今年は免許更新の年だったので昨年秋に更新しない決心もした。


 このバイクは私にとって三台代目、必要にせまられ免許をとって三十六年無事故無違反を
通していたのに、五年くらい前初めての道で、一時停止の標識を見落とし白バイに。
 あの時の悔しさ、自分のミスを棚に上げにこやかに応対する若い警官を憎んだ。
それからは知らない道でも「一時停止」の標識はすぐ目につくので、捕まるのもいいか。


 バイクとの別れがつらい訳がもう一つある。

 このバイクは夫が亡くなる前年二人で買いに行ったものだ。ケチの私はもうそう遠くまでは
乗らないのだから、安いのにしょうと決めていた。
 彼は違った。「命を預けるものだから」とその時の最新型のホンダに決めた。
どれでもいいと言う私にヘルメットも一番いいのを選んだ。
 あの時の夫の顔は今でも覚えているが、私より満足げで嬉しそうだった。


 翌年夫が病気になり、入院していた四十五日間、私はこのバイクで毎日病院に通った。

 昨秋バイクは廃車を考えて買った店の店主にもそう伝えていた。

ところがたまたま訪ねて来た知人とバイクの話になり
「大切にきれいに使っているし、距離を乗ってないからまだまだ乗れる。うちのはもう時々
エンジンもかからないので、よかったら譲って欲しい」

 廃車してどこでどうなったかより、知人が乗ってくれたら私も嬉しいと思った。
そして二月に譲り渡す約束をしていた。

 一月東京から帰ってから暖かい日に少しづつバイクの掃除をして、保険証や防犯登録
キーも予備の真新しいのと揃えて、いつ知人が来てもいいようにしておいた。

 昨日待ちかねて電話をした。知人はあまり早々に行くのもとためらっていたらしい。


 そして今日ご夫婦で見えて、諸手続きの準備も終わり、ゆっくりとお茶を飲みながら
「どうぞよろしく」と私。
「有難うございます」と知人。

 颯爽と私のバイクに乗った奥さんが軽快なエンジンの音を残して帰って行った。


 バイクが見えなくなった途端何故か切なくて苦しくて胸がいっぱいになった。
気がついてはいなかったが、私にとってはやっぱり大切なもの。夫との思い出のバイク。

 蝋梅のかすかな香りが風にのって漂っている。庭の寒あやめも愛らしい紫を見せている。
 
 穏やかな春立つ日のさようなら、私の優しい思い出がまたひとつ。








 

 

 


 



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最後のメール「おやすみなさい またあしたね」 2

この冬一番の冷たい朝、昨日はひと時雪も舞った。

 窓から見える白い水仙の清らかな花にHさんの姿が重なる。

 彼女からの最後のメールを貰ってから二日間どうしても連絡が取れず心配していた。
こんなことは初めてだったし浅草寺へ行く詳しい約束も出来ていなかったから。
 一人暮らしだったけどすぐ近くに次女のAさんと大学生のお孫さんが住んでいて、
毎日のように行き来していることは知っていた。

 でもHさんはリビングに横たわり一人で旅立ってしまった。

 私は警察署からの電話で事実を知った。私からのメールで色々分かったのだと。

 今思うと私はこの時落ち着いていたと思う。

 胸は早鐘を打つような動悸で今にも破裂しそうだったし、携帯を持つ手は震えていた。
多分血圧は200は超えていただろう。

 それでも私は取り乱してはいけなかった。
話を聞いている間Hさんの愛しい笑顔が私を支え続けた。

 涙は出なかった。


 23時22分最後のメールをして間もなく亡くなったということが分かった。
原因は心臓病だった。そういえば心臓の薬は飲んでいた。

「こんなに元気なのに心臓のどこがどうなの」
何回かきいたことはあったけど
「よくわからない」
と呑気な答だった。

ここ何十年もの間会うと二人で東京の辺りを歩きまわった。
それでも一度も彼女が疲れたとか胸苦しいとか言ったことはない。

 
 子供たちの前ではもういつもの私ではなかった。取り乱し放題。
 娘が
「ママ今東京にいてよかったね。すぐにHさんに会いに行こう。きっと待っているよ」
こう言われたとき初めて涙が溢れて止まらなくなった。

 Hさんの長女Nさんからも連絡を頂き一人で大丈夫という私に、しっかり娘がついて来た。
駅まで車で出迎えてくれたNさんとは中学生の時以来の再会である。


 Hさんは私が最後に逢った時そのままの美しい顔で眠っていた。
少し微笑んでいるような安らかな、今にも起き上がって「来てくれたのね」と言いそうな。

 私は顔を撫で肩に腕に胸にもそっと手をおいた。自慢の黒髪にも触れた。
どこもかも冷たくて、あの駅での最後の手のぬくもりが突然蘇り涙がながれた。

「安らかにおやすみなさい。娘さんやお孫さんのことは心配いらないよ。貴女の自慢の人たちでしょう。旦那様きっと待っているよ。最後に私のことも忘れないでね。」


 私はHさんに最後の手紙を書いた。

十五歳で逢ってからもう一人の友と仲良し三人の高校、娘時代、子育て中の何年間か会えなかった
頃のこと。
子供たちが成人してからの三人が毎年旅をしたこと。

 そして昨年十月Hさんが里帰りした時十年ぶり三人がにホテルで泊まり温泉に入り楽しい
一日を過ごしたこと。

 Hさんにというより最愛の母を亡くした二人の娘さんに、いっぱいいっぱいお母さんのことを
教えてあげたかった。
 手紙はお母さんに書いたけれど二人に読んで欲しいと。そして最後にはお母さんと一緒にと。

 
 私は我が家に帰った翌日もう一人の親友に逢った。

「また東京へ行って来るよ」
「Hさんに逢えるね、よろしくね」年末の電話で。


 私は久しぶりとニコニコ顔の友にこんな辛い悲しいことを告げなければ、それも突然に。
ずっとずっと考えていた通り、
「大切な悲しい話をするよ」

彼女の肩をしっかり抱えて一息にМさんが亡くなったことを話した。
その時の彼女の表情は決して忘れない。優しい優しいこの人がどんなに驚いただろう。

 暫らく言葉はなかった。そのあとしっかり二時間余り三人の思い出話は尽きなかった。


 悲しい一月ももう終わった。

毎晩電話をくれる娘に
「大丈夫、彼女でいっぱいだった頭の端の方にこの頃またパパが出てき始めたよ」
「それは良かった、ごちそうさま」


 「二月になったから頑張るよ」
週に一回だけする息子へのメールに
「頑張らなくてえーよ。自然体が一番」と返信来た。


 


 

 

 
 












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