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筒井筒~港の町で  夢 [昭和初恋物語]


 十一月に入って役所の前の大通りの銀杏が色づいて来た。
 奈央はこの道が好きだ。特に夕暮れ家路に着く頃の、夕陽を浴びて金色に揺れ
る並木は美しくてつい立ち止ってしまう。
 奈央は昨日の母からの手紙のことを思い出した。ー今年は御用納めが終わった
ら直ぐに帰って来るように、大切な用事がありますー。
 奈央は又! と可笑しかった。きっとお見合いの話なのだ。結婚相手は自分で見つ
ける、と言う彼女の言葉をききいれて、両親は今まで何も言わなかったが、ここにき
て高校時代の友人たちが、次々に結婚して行くのをみて母は少々心配になったらし
い。この頃では家に帰る度に何やかやとうるさい。
 奈央は結婚はしたいと思っていた。でも今の福祉の仕事が自分には合っていて
一生の仕事にしてもいいように思い始めていた。
だからもっと勉強をして専門の知識を身につけたいと考えていた。そんな自分を理
解してくれる人が現れたら、その時は結婚のことも.....。
 そんな訳で休日も図書館に行ったり、勉強会に出たり結構忙しくて、あまり実家に
帰ることもなかった。
 夜になると街から少し離れた所にある奈央のアパートでは、虫の声がよく聞こえた。
一日の仕事を終えて家に帰り、早めの銭湯に行き食事の後も、静かにプレヤーで
好きな音楽を聴きながら専門書を読む事の多い奈央の日常だった。

 どこの砂浜だろう。透き通った藍色の海が広がり、波の音が聞こえる。夏の初め
の太陽の光がまぶしくて、大きな日傘をしっかりさして奈央は砂浜にしゃがんでいる。
手に持った駕籠の中には、白や青や黒の形のいい小さな石を、もう重さを感じる程
拾った。「これでよし」これらの石を自分の部屋のメダカの水槽の中に沈めようと思っ
ている。立ちあがろうとした時奈央は目の先に小さなピンク色の貝を見つけた。
 蝶が羽を広げたような形で、少し砂に埋もれている。さくら貝だ。手にとってよく見る
と貝殻の外側は淡いピンク、内側の方が濃いピンクで何とも言えぬ愛らしさである。
 奈央は子供のように、嬉しくなって壊れないように夢中でさくら貝を拾った。
「 奈央! 」声がして振り向くと淳が立っていた。笑っている。「 淳 」大きな自分の
声に驚いて目が覚めた。

 音楽が聞こえる。広げた本の上にうっぷして奈央は眠ってしまっていたのだ。
夢!! でもどうして淳の夢なんだ。こういう時夢に出て来るのは恋人でしょう。
 奈央は可笑しくなって一人で笑った。彼とは五月のあの日以来、連絡も取ってない。
 そういえば淳は今どこで何をしているのだろう。
 すっかり夜が更けて虫の声がいっそうよく聞こえていた。

 
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筒井筒~港の町で 再会 [昭和初恋物語]

 出かけに架かって来た電話に手間取って奈央は焦ったが、約束の時間には
間に会いそうだった。
 あの川が見える高台の喫茶店、重いドアを開けると、すぐ淳の顔がみえた。
 あの日から爽やかな五月の風の中で、二人の胸に通いあったほのぼのとし
たものを大切にして、淳が帰省する度によくデートしたものだ。
 大学を卒業して、奈央は親元を離れ、大好きなこの街の市役所に就職した。
淳は大手の銀行マンになった。勤務先が東京と聞いても、奈央は自分の気持
の中に、淳と遠くに離れてしまう寂しさをあまり感じなくて不思議だった。
 二人でいると心地よい、お互いその程度の関係だと悟って、別に抵抗なくそ
れぞれの任地に赴いた。
 「お久し振り元気そうだね」健康そうな白い歯を見せて淳が笑った。
「本当、考えてみたら三年振りかなあ。前にこの町で会ってからだともう六年
にもなるよ」奈央も本当に懐かしい思いで応えた。
 二人が社会人になってからは、学生時代に考えていたより忙しくて年賀状
を交わす程度の付き合いになっていた。
 淳は大都会の中で忙しくしていても、何もすることが無くて一日中自分の部
屋に閉じこもっている休日など、ふと奈央のことを思った。
 今度の出張が決まった時、淳は奈央に会おうと決めた。
 テーブルの上の冷たいレモンソーダの小さな泡が、コップの中でゆらめいて
いるのを見ながら、淳は久し振りに心身共にリラックスしている自分を感じて
いた。
 あの時と同じように、一本の手紙で文句も言わずに会いに来てくれた奈央の
優しさが嬉しかった。
 何か物思いに耽っているような淳の様子を見ながら、奈央の中に懐かしさが
募って来た。すっかり落ち着いて銀行マンらしい大人の淳がいた。
「何か急用でもあった?」奈央が声をかける。「うん、別に何もない。久し振りに
奈央の顔が見たかったのかなあ」「そう、そんな時あるよね。私たち昔からそん
なもんだね」奈央は無邪気に言ってレモンソーダをぐっと飲んだ。
 「恋人出来た?」突然淳が聞いた。奈央ははっはっはと豪快に笑って、「えー
今の所そんな気もないし、私福祉関係の仕事だから、お年寄りの相手ばかりで
そんなチャンスも全然なくて。淳こそいい人出来たんでしょう。都会には美人も
沢山いるからね」
 淳は黙って奈央を見た。昔と少しも変わってない。明るくて素直で可愛くて、
そんな彼女をこのままそっとしておいてやりたい。そんな気がしてきた。
 窓から見える青い川の流れはゆるやかで、あの日から六年もの時が経った
ようには思えない。
 淳は七月からベルリン勤務になることを、奈央には言うまいと心に決めた。
 二人にとって、五月の光に満ちた港の町での六年目の再会だった。

                                         
                                           
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昭和初恋物語   筒井筒~港の町で [昭和初恋物語]

 電車が来るまでまだ少し時間がある。ベンチに座ると奈央は定期入れを開けた。
ちょっと澄まして目は笑っているこの写真は、淳が大学へ行くためこの街を去る日
「よかったらあげるよ」と言ってくれた。「うん」と何気なく貰ったが奈央には何の感
情もなかった。
 あれからもう一年になる。一週間前、突然淳から手紙が来た。ゴールデンウイー
クに帰省するから、次の日曜日会えないか、もしОKなら船が着く港の町まで来て
欲しい。
 奈央は思わず笑った。「どういうこと?」淳が大学に行ってから、二人はただの一
度も会ったことは勿論、手紙を交換したこともない。
 それにこの一方的なものの言いよう。船が着くのは十一時、待合室で待っている
とだけ書いてあって奈央の返事を聞くでもない。第一どこへ返事を出していいのか、
住所も知らない。
 淳は二人が生れ育ったこの街から電車で一時間、そこからフェリーで二時間の
所にある街の大学に進んだ。奈央は地元の大学を選んだ。
 二人は幼馴染で高校までずっと一緒だった。淳に貰っ写真を何の気なしに定期
入れに入れたので、まあ時々は眺めることにはなった。
 淳の手紙を受け取って、奈央は直ぐに久し振りにあの港の町に行ってみようと
思った。淳に会うというより、彼女はこの町が好きだった。
 駅を出るとすぐ小さなお城が見えて、楠の並木の大通りを三十分も歩けば港に
着く。そこから島通いの小さな船や、本州に渡るフェリーがひっきりなしに出入り
する。その上ここには奈央の好きな大きな川がある。
 奈央が港に着いた時、もう船は入っていて白いシャツの淳が、待合室の中から
大きく手を振りながら飛び出したきた。「おう、来てくれたんだ。よかった」大声で言
ってさっと奈央の手をとった。「だって来るよりないでしょう。返事のしようがないの
だから」「ああそうか、元気そうだなあ。少し綺麗になったかな?」淳はまじまじと奈
央を見つめながら嬉しそうに言った。「兎に角お昼食べようや」淳はさっさと先に立
って直ぐ近くの食堂に入った。お昼にはまだ早く他に客はいなかった。「ねえ、どう
いうことなの。何で私を呼び出したの?それも突然で、人の都合なんか考えないん
だ」店に入って席に着くなり、奈央は頬を膨らませて淳を少し睨んだ。淳は一瞬居
住まいを正して「うん奈央に会いたかっただけだよ。他に理由なんかない」とぶっき
らぼうに言った。
 奈央は一瞬事態が飲み込めずにポカンと淳の顔を見つめていた。
「離れてみて分かったんだ。俺奈央のこと好きだったみたいなんだよ。考えたこと
なかったけど、大学に入ってから何だか変なんだよ。何か足りない、何か違うと考
えていたら、そうだ奈央の顔見れないせいだと気づいた。だって物心ついた時か
らいつも一緒だったもんなあ」一気に言って淳はニコニコと笑った。
 奈央にも、彼の言い分が少し分かってきて、下を向いてくっくっと笑った。
本当に子供の頃から見慣れた淳の顔が目の前にあった。大学生にもなって何と
他愛ないことを言っているんだろうと、奈央は今度は声を上げて笑った。
 店を出ると当てもなく二人で町を歩いた。奈央はこの一年淳のことなど考えたこ
とあったかしらと思った。大学生活は新鮮で、楽しくて友人も何人か出来た、だか
ら淳のことをふっと思い出すことはあっても、会いたいとか、寂しいとか思ったこと
はない。でも何気なく貰った写真を定期入れに入れて、見るともなく見ていたのは
事実だ。奈央は不思議に思った。こんなところへ女性が入れるのはきっと恋人の
写真だ。私は心の深い深いところで淳のことが好きだったのだろうか。
 いつか二人は河原に来た。明るい日射しをいっぱい受けて中州には若草が生
い茂り、青い川の水がキラキラ光っている。「うおーっやっぱりいいなあ」淳は走り
だした。土手から河原に下りる小さい石段を、要領よく下りて、下から奈央に手を
振る。 子供の頃から全然変わってないその様子を見ながら、奈央は何か懐かし
い思いで後に続いた。
 二人はこの一年間の、お互いのことを時間を忘れて話し続けた。奈央はこんな
に淳に話すことがいっぱい有ったのだと不思議な気がした。
 淳は思い続けた奈央とこうして一緒にいられることが、何より嬉しかった。
 随分長い間河原にいたような気がした。少し風も出て来た。
「そろそろ帰ろうか」淳に促されて奈央は立ち上がった。
 川べりの道を並んで歩きながら、奈央はこの数時間の間に淳に対する自分の
気持ちが、少し変化しているのに気づいていた。
 吹き抜ける風と、降りそそぐ五月の光の中で、奈央の胸は少し弾んでちらっと
淳の横顔を見た。


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都忘れの花白く   最終章 [昭和初恋物語]

 研は落ち着いた様子で千穂の顔をまっすぐ見た。そして「本当です」と低いけれど
はっきりと言った。
 千穂に言うべき言葉はなかった。でも思ったよりは冷静だった。体の震えもおさま
っていた。
 彼女の目に青く青く澄んだ空だけが見えた。

 研は初めから涼子との結婚を考えていた訳ではなかった。千穂と二人を同じくらい
愛おしく思っていた。心は揺れていたが時が経つにつれて、自分とは正反対の性格
の明るくて、おおらかでしっかりしている涼子に強く惹かれていった。
 一方千穂の静かで優しい女性らしさも捨て難かった。自分の我儘が千穂を悲しま
せることになるのも分かっていて、別れを切り出せないまま今日になってしまった。
「千穂さん、本当に済まない。自分勝手な僕を許して下さい。でも貴女を好きだった
ことは嘘ではない。真実です。僕の中には今でも優しい千穂さんがいるのです」
 研の頬にすっと涙が流れた。
 千穂はもう何も聞きたくはなかった。もう何も信じられなかった。胸の真ん中にぽっ
かり開いた大きな穴の中を、冷たい冷たい風が通り抜けていくような、悲しい感覚だ
けが深く胸に残った。
 この秋千穂は会社を辞めた。

 草木が萌え、降りそそぐ太陽の光が若葉を輝かせる季節、美しい五月になった。

 あの秋突然退職した千穂に、光代も友子も理由は聞かなかった。でも光代ははっ
きりと千穂の恋が敗北に終わったのだと悟った。彼女は黙って千穂に寄り添った。
彼女の悲しみの、ほんの少しでも背負ってあげたいと心の底から思った。
千穂を一人にさせまいと、三人で映画を見たり食事をしたり、小さな旅もした。
そしてこの頃になって、やっと千穂に笑顔が戻って来た。

 つい先日、友子が恋愛をすることなく、お見合いで結婚を決めたと二人に報告した。
彼女は「数回しか会ったことはないけど、あの人のこと好きになれそう」と幸せそうに
言った。そして恋愛はしないと断言していた光代にも、今は心の通じ合う人がいた。
今になってやっと、あの頃の千穂の辛さや切なさが光代にも理解出来た。

 澄んだ空が青く、渡る風が心地よいある日、千穂、光代、友子の三人は郊外にピク
ニックに出かけた。電車をおりて三十分も歩くと、一面青々とした麦畑が続いている。
ぽつんぽつんと点在する農家のなかに、花に囲まれたような一軒の家を見つけた。
 庭先の藤棚には薄紫の藤の花房が今を盛りと咲き、広い庭に競い合うように、バラ
芍薬、かきつばた、こでまりなどの、色とりどりの花が咲いていて、甘い花の香りが辺
りに漂っている。「うわあーきれいっ」三人は思わず花の傍に走り寄った。
 その時千穂は古い井戸の側にひっそりと咲いている、ひとむらの小さな白い花に目
を止めた。   都忘れの花だった。
 じっと見つめるその花の向こうに、千穂は懐かしい人の面影を見たような気がした。
 
 辺りに人の影はなくて、五月の空はどこまでも澄み渡り、ひばりの鳴く声だけが遠く
に聞こえていた。

 
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都忘れの花白く   9 [昭和初恋物語]

 梅雨が明けると一気に夏がやって来た。
「自分の気持ちを大切にして」あの雨の夜光代が言った言葉が千穂の耳に鮮や
かに残っていた。
 私の気持ははっきりしている。研に対して最初から変わることはなかった。
その気持ちが、結婚という形で受け入れられないと分かってからも、千穂は彼へ
の想いを諦めることは出来ないでいた。
 研に誘われれば映画にも行ったし食事もした。今までのようにはいかなかった
が二人でいることが嬉しかった。自分の気持ちを話してしまった研の方は、かえ
ってすっきりした様子で、前より明るくなったように千穂には見えた。
 あの後しばらくして光代に「山部さんとのことどうなった?」と聞かれた時、今ま
でと変わったことはない、と応えた千穂に、光代はあからさまに嫌な顔をした。
 嫌というより、世にも情けない!! といった様子で言い放った。
「私は千穂が大好き、だから千穂には誰からも羨ましがられるような素敵な恋を
して欲しい。先の見えない一方的な惨めな恋なんて最低。恋は盲目なんて言葉
賢い千穂には似合わないよ」
 そして千穂らしい正しい決意を聞くまでは、しばらく会いたくないとぽろぽろと
涙をこぼした。
 恋とはほど遠い所にいる光代に、千穂の複雑な切ない心境が分かるはずも
なかったし、どんなに説明しても、今のままの状態では到底納得はしてもらえな
いと、千穂も半ばあきらめていた。

 朝夕は少し涼しくなって虫の声も聞こえ始めた頃、千穂は研と涼子が正式に
婚約したことを知った。
 会社の先輩が「余計なことかもしれないけれど...」と遠慮がちに教えてくれた。
予期していたとはいえ、千穂は立っていられないほどの衝撃を受けた。
 今まで怖くて唯の一度も涼子のことを聞いたことはなかった。研も何も言わな
かったことで、千穂の中で小さな小さな希望の灯は消えずにいたのに。
 ---終わったーーー私の負け。
 今更ながら自分の意思の弱さが腹立たしかった。
 それでもまだ「本当なのか、単なる噂なのでは」と心の隅でそう思いこもうとし
ている千穂がいた。もし本当ならせめて研の口から真実を聞きたかった。
 次の日昼休みに千穂は研を屋上に呼び出した。
空の色とひんやりした風が、秋の訪れが近いことを感じさせた。城山が正面に
見えるベンチに腰掛けるとすぐ千穂が言った。「昨日聞いたのだけれど、山部
さん大津さんと婚約したって本当ですか」胸が張り裂けそうに痛くなり、全身が
小刻みに震えているのがわかった。




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都忘れの花白く 8 [昭和初恋物語]


 研が重い口を開いた。「ごめん、いつか話そうと思いながらどうしても勇気が
なかった。大津さんとは時々会っていた。」千穂は耳を疑った。突然周りの音
がすべて消えた。千穂は呆然とただ動いている研の口元をみつめていた。
 研は明るくて元気で、はっきりものを言う涼子に千穂とは違った魅力を感じ
ていた。涼子といる時は、自分でも驚くほどよく喋ったしよく笑った。
 千穂と付き合い始めてすぐ涼子の方から近付いてきた。同じ社内の同期の
二人と同時に付き合うことがどういうことか、研にも分かってはいた。
このままでは二人を傷つけることになると思いつつ研は自分の弱さに負けた。
 彼にとっては千穂も涼子も離したくない、大切な女性なのだ。
 身勝手だ不誠実だと罵られても、そんなことは叶わぬことだと分かっていて
も今まで研はどうすることも出来なかった。
「千穂さんのこと大好きだけど結婚は出来ない」
 突然研の声がガーンと衝撃的に聞こえて、千穂は我に返った。
唇を真一文字に結んで、青ざめた研の顔が目の前にあった。
 千穂はすべてを悟った。「好きだけど結婚は出来ない」どういうことか、今の
千穂には到底理解出来ることではなかったが妙に納得した。
 なぜか悲しくはなかった。ただただ虚しさが胸に迫って来た。
このまま研といるのは辛すぎた。
 千穂は黙って喫茶店を飛び出した。さっきまで降っていた雨は上がって、灰
色の西の空に美しい虹の橋がかかっていた。
 その場に座り込んでしまいたいほどの疲労感を感じながら、千穂の足はい
つの間にか光代の家に向かっていた。
 突然の千穂の来訪に驚きながらも、光代はその様子からただならぬものを
感じていた。部屋に通して二人きりになると、千穂は自分の体を支え切れなく
なったように、その場にくず折れて泣きじゃくった。
 母が熱い紅茶を持ってきたくれた。黙って二人で紅茶を飲んだ。
 少し落ち着くと、千穂はこのところの研とのことをすべて光代に話した。
 光代は聞きながら、その内容をすぐには理解出来なかった。あの紅葉を見
に行った後、研に会ったことはなかったが、いつも千穂から二人のことは聞い
ていて、友だちとして応援していた。
 少し落ち着いてくると、光代の中に研に対する怒りが猛然と突き上がって来
た。この純真で一途な千穂の気持ちを踏みにじる行為を許すことは出来ない。
「千穂はこのままでいいの」黙っている千穂に畳みかける。「千穂のこと好きだ
けど結婚は出来ないって。なら結婚はその大津さんという人とするの」「それは
分からない」と千穂。
 光代は泣きそうになった。いらいらした気持ちを千穂にぶつける。「千穂ここ
は自分の気持ちを一番に考えて。どうしても山部さんが好きなら、ここで引き
下がっては駄目。どんなに辛くても、このままでいいということはないでしょう」
 恋を知らない光代の理にかなった言い分だった。
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都忘れの花白く   7 [昭和初恋物語]

 
 千穂は不安で胸が締め付けられるように苦しかった。結婚したいとはっきり
伝えるのは勇気のいることだった。私はそれを言ったのに研は応えてくれなか
った。もうよそう、今夜はこれでいい。好きだと言ってくれた、私の気持ちは分
かっていると言ってくれた。それだけでいい。
 千穂の中に、薄雲のように広がっている涼子のことなど、とても問いただせ
そうになかった。
 「食事にしましょう」明るい声で千穂が言った。
 針のむしろに座って、砂を噛むような食事。どんな話をしたか、何を言ったか
この小一時間のことをずっと後になっても千穂は思い出すことは出来なかった。

 梅雨になった。
 ある日曜日、千穂は一人で書店に行った帰り、姉に頼まれていたコーヒー豆
を買いに喫茶店に立ち寄った。店頭で待っている間にふと店内に目をやった千
穂はわが目を疑った。ブルーのレースのカーテン越しに、楽しそうに談笑してい
る研と涼子がいた。千穂の胸は高鳴り、どのようにその場を離れたのかも分か
らぬうちに、気がつくと雨の中を傘もささずに歩いていた。
 自分の気持ちを研に伝えてから二カ月、二人の関係は今までと変わることは
なかった。涼子への拭いきれぬものはあったが、千穂は研を信じようと決めて
いたのに。もう彼女はどうしていいか分からなかった。
でも涼子のことをこのままにしておくことだけはは出来ないと思った。
 夜になっても止むことなく降り続いている雨が、千穂の心を一層冷たく悲しく
させた。
 ふと光代の顔が浮かんだ。彼女に話してみようか....いやいやこんなことで心
配はかけたくない。
 明日はもう一度研と話そう、彼の本心を聞きたい。千穂は心に決めた。
 眠られぬ夜が明けた。今日会社で研と涼子の顔を見ることはどうしても出来
そうにない。千穂にはその勇気がなかった。会社は休んだ。
 四時過ぎ研に電話して、今夜合って欲しいと約束した。
 約束の喫茶店に時間より早く研がやって来た。「体でも悪かったんじゃないの
会社休んて゛いたから、どうしたのかと思って」言いながら心配そうに千穂の顔
を覗き込んだ。千穂はそれには応えず、ずばりと言った。「昨日大津さんと会っ
ていたでしょう。私見てしまって....」
 研の顔が強張った。黙ったまま千穂を見ている。何か言って!! 偶然出会って
お茶飲んだだけだよ。嘘でもいいからそう言って欲しかった。
 じっと研の顔を見ているうちに、千穂はどんどん冷静になっていく自分を感じ
ていた。

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都忘れの花白く   6 [昭和初恋物語]


 桜が満開になり、遠くの山には霞がかかり、道端には春を待ちかねた草花たちが
一斉に咲き競う。
 こんな美しい季節なのに千穂の気持ちは晴れず、考え る日が続いていた。
涼子はあれ以来なにごともなかったように、千穂に接していた。この頃千穂は研と
合っている時、彼がふっと考え込んだ表情を見せることに気づいていた。
 その夜は久し振りのデートだった。街全体が浮き立つような春の宵、こうして二人
で歩いているだけでも幸せな千穂だった。涼子のことがなければ....。私はこのまま
でいい。研の気持ちの詮索なんか....とさえ思った。でも今夜は心に決めていた。
 食事はよく行く和食の店、五、六人も座ればいっぱいになるカウンターと小部屋が
二つあるだけの小さな店で、上品な中年の女性がにこやかに迎えてくれた。
通された部屋は三畳ほどで、正面に障子窓があり、その脇に飾り床がある。そこに
小さな竹かごの花入れに、濃紫と白い都忘れの花がしっとりと活けられていた。
その花の可憐なたたづまいが、今夜は一入千穂の心に染みた。
 二人はゆっくりとお茶を飲んだ。今すぐ切り出さないと決心が鈍りそうだった。
「ねえ、食事の前に私話したいことがあるの、ちょっといいかしら」千穂が言った。
「うん、まだ時間早いから大丈夫だよ」研も心なしか緊張した面持ちだ。「私から
こんなこと言い出すのどうかと思うのだけど、私なりに考えた末のことなの起こらな
いでね。」胸の動悸が一際高くなった。「もう私たち一年もお付き合いして、お互いの
ことよく分かったと思うの。少なくとも私は山部さんのこと大好きだし信じてもいるわ。
そして、今では結婚するならこの人しかいないと思っています」千穂は一気に言って
大きく息を吐いた。「今夜は山部さんが私のこと、どう思っているのかはっきり聞き
たいの。今の気持ちが知りたい。私が今までのように山部さんのこと信じていていい
のかどうか。それが知りたいのです。」研は大きくうなづいて千穂を見た。
 「ごめん、こんなこと女の君に言わせるなんて本当に申し訳ない。僕もずっと悩んで
いたんだ。年上の男の僕が決断すべきだったんだ。ぼくも千穂さんのこと好きだ一緒
にいると心が安らぐ。そして君の気持ちも僕にはちゃんと分かっていた。」研は言葉を
切って、ふーと深いため息をついた。そして黙ってしまった。
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都忘れの花白く   5 [昭和初恋物語]


次の日千穂が会社に行くと研の姿が見えない。どうしたのだろう、いつもなら
すぐ涼子に聞くのに今日はそれが出来なかった。
 昼頃になって、研が市内の営業所回りをしているので今日は出社しないこと
が分かった。千穂は何故かほっとした。涼子は何事もなかったように仕事をし
ている。昨日のことを彼女に質したい気もしたが、何だか怖くてそれは出来そ
うになかった。
 退社時間が来て千穂が帰り仕度をしていると、涼子が一緒に帰ろうと声を
かけた。電車のりばまで一緒に帰ることはよくあったのに千穂はびくっとした。
 商店街に出ると涼子が、お茶飲みに行きましょう。と半ば強引に誘った。
千穂は腹を決めた。もしかして昨日のことがはっきりするかも分からない。
 二人が入った喫茶店は明るくて、仕事帰りらしいOLたちでいっぱいだった。
窓際に座ると、春の夕暮れの街を行き交う人々がすりガラス越しによく見えた
 運ばれてきたレモンティーを一口飲むと涼子が突然言った。「ねえ泉田さん
あなた山部さんの事どう思っているの」千穂は飲みかけていたレモンティー
のカップを取り落としそうになるほど驚いて涼子を見た。彼女は落ち着いた
様子で千穂を見ている。「どう思うって?」消え入りそうな声で千穂が問い返す
「貴方たちどういうお付き合いしているのかと思って、もう長いでしょう」あなた
には関係ないでしょう。と千穂は思った。こんな質問に応える必要なんかない
と思った。でも何か言わなければ、「友だちかなあ....」向きになって言ってしま
って彼女は少しうろたえた。「友だちなんだ...」涼子は笑って言った。「でも二人
のこと見いいると恋人同士にみえるわよ。会社のみんなだってそう思っている」
 聞きながら千穂はのどがからからになり、頭の中がかっかっと不規則な動き
をしているのが分かった。
「ええ、でも私たちそういうこと話したことないから」「私たち成人したもう立派な
大人よ、そういつまでも友だちでいられるものかしらねえ」涼子は何を言いたい
のだろう。思考が停止してしまったような感覚の中で、千穂の口から自分でも
驚くような言葉が出た。「大津さんこそ山部さんのことどう思っているの。」
 涼子の顔が一瞬強張るのがわかった。でもすぐ何事もなかったように落ち着
いた声で言った。「私?私はかれのこと好きだわ。でも私がそう思っているだけ
で、山部さんがどう思っているかは全然分からない。」千穂は全身から血の気
が引いて行くのが分かった。思ってもみなかった涼子の言葉だった。
昨日街角で見た研と涼子の姿が、鮮やかに大きく千穂の脳裏に甦った。
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都忘れの花白く   4 [昭和初恋物語]


 春が来て千穂が研と出会って一年が過ぎた。
 その日は労音でダークダックスが来るので、一緒に行こう、と光代に誘われ
ていた。千穂が会場に向かって歩いていると、五十メートル程先の郵便局の
向かいに研が立っているのが見えた。今から帰るところかなあ、と思いつつ
角を曲がろうとした時研が手を上げた。自分のことが見つかったのだと千穂も
合図を送ろうとした時、彼の傍に小走りで近付いて来た女性がいた。「あれっ」
と思った千穂の目に、振り向いた女性の顔がはっきり見えた。同僚の大津涼子
だった。千穂は心臓の鼓動が大きく波打っているのが分かった。
 二人は並んで話しながら遠ざかって行った。後を追いたい衝動に駆られなが
らも、辛うじて平常心を取り戻した千穂はゆっくり歩き出した。そして同僚だもの
偶然帰り道で出会ったのかもしれないわ、と自分に言い聞かせた。
 ダークダックスのハーモニーは、心が洗われるような美しさで、特にロシア民
謡は一際胸に響くものがあった。しかし約二時間のコンサートの間千穂の脳裡
から、さっき街角で見た研と涼子の姿が離れることはなかった。素晴らしい歌声
なのに、何故か悲しくて次々と涙がこぼれ落ちた。
 友子がどうしても都合がつかなくて、二人になったけど楽しかった、と光代は
思いつつ、今夜の千穂の様子がおかしいことに気づいていた。千穂はいつも
無口だったけど、今夜は特に光代の言うことに相槌は打つものの、何だか虚ろ
な表情で、心ここにあらず、の感情が見え見えだった。その理由が何だかさっ
ぱり分からなかったけれど、光代は心配だった。
 お茶でも飲みに行く?と聞く光代に千穂は「今夜は遅いから又にしょう」と弱々
しく行った。「ねえ千穂、何か心配事でもあるの、様子が変だよ」「ううん、何でも
ないよ、昨夜寝不足で少し頭が痛いの」今から光代と二人になりたくはなかった。
彼女の優しさに自分は取り乱して、きっと確かでもない研たちのことを喋ってしま
うに違いない。今夜は一人で自分の力だけで考えてみよう。千穂は思った。
 早くに母を亡くした千穂は、今父と兄夫婦と4人で暮らしていた。
 自分の部屋で一人になると、少し冷静になれた。
涼子は明るくて気さくで、芯の強そうな所はあったが同期の中では千穂とは気
が合う方だった。この頃では会社の人たちも、研と千穂のことはよく知っていて
むしろ公認のようになっていた。だから涼子のことは何でもないと思えば思う程
得体の知れないもやもやが、千穂の胸に広がって行った。
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