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平成シニア物語  ふたりの行く途 [平成シニア物語]


 障子を少し開けると廊下のガラス越しに庭が見える。
淳子の母が手塩にかけたお茶花が季節ごとに咲いて、母の面影が浮かぶ。
今はうす紅色の萩の花がこぼれるように咲いている。
 今日は母の月命日で、お墓参りを済ませた恭介と淳子は久し振りに実家を
訪ねていた。
 二人は淳子の弟悟と三人で悟の妻の芳乃にお茶一服点ててもらうところだ。
ゆったりと美しい芳乃の点前は、八十五歳で亡くなるまで茶道を全うした母の
点前によく似ていると淳子は思った。
萩焼の茶椀を手に取ると抹茶の香りがほんのりとして、一口頂くとまろやかな
味がしっとり広がっていく。三人はそれぞれに、その味を堪能した。
「今日はお兄さんたち本格的ですね。ふたり揃ってお着物なんでびっくりです」
芳乃に言われて淳子は笑った。
 昨夜明日はお母さんの命日だねという話になった時、いい季節だしたまには
お母さんの好きな着物で行こうと、恭介が提案した。
着物なんて前に着たのいつかのお正月だったよね.....と言いつつ淳子もその
気になった。
 恭介は濃紺の大島紬のアンサンブル、淳子も濃い藍鉄色が美しい亀甲柄の
大島の上下を着た。
「とてもいいです。やっぱり大島はいいですねえ。」芳乃がしみじみと言う。
「そうねえ何だか気持ちまでおっとりゆったりして優しくなれそうだわ」淳子も
満足そうに相槌を打った。
「兄さんが初めてこの家にきてから、もうどの位になるのかなあ。」悟が言った。
「うーん五十年にはなるよ。悟さんが大学に入った年だと思うから。」
 そうあの頃は祖父母もいて弟や妹もいて賑やかだった。淳子が付き合い始め
た恭介を父母に紹介したのだった。
「そうだなあ、僕たち年とる筈だよなあ」悟が感慨深げに言った。
 恭介も悟も現役を引退して、今は自由気ままな身分だ。和やかに四人の話は
尽きることなく楽しいひとときが過ぎた。
 夕食を一緒にという弟たちの申し出を「今日は予定が...」と断って実家を出た。
 二人はここから車で三十分程の海にいく約束をしていた。

 二人が結婚してもうすぐ四十五年、子供たちは大学をでるとそのまま都会に住
みそれぞれ家庭をもった。
 恭介も淳子も子供たちには「わが道を行きなさい」と教えた。親の都合で子供が
自分の道を断念するようなことがあってはならないと。
 そして淳子たちは生れ育ったこの街を、終の棲家と決めていた。
 
 車は街中を抜けると海に向かう広い道路を気持ちよく走る。窓から見える山の
木々は所々紅葉して秋が近いことを感じさせる。
海が見えて来た。二人が昔よく来た頃は、遠浅の海岸は白い砂浜が広がり、松
林が続いていた。沖に浮かぶ小島が碧く霞んでいた。
 今は護岸工事がなされ松の木も伐られて昔の景色はない。しかし海だけは昔
のまま青い波がゆうゆうと寄せては返している。
 整備されて海浜公園となったこの辺りは、気のきいたカフェやレストランが立ち
並び若者たちで賑わっていた。
 駐車場に車を止めた二人は静かな防波堤に沿った遊歩道の方へ向かった。
前に遮るものもなく目の前いっぱいに海が広がっている。夕陽が真っ赤だ。
 淳子はつい感傷的になった。こうして二人でぶらぶら歩くなんて....本当に久し
ぶり。
「ねえ私たち結婚するときに思い描いた通りの人生送れたかなあ。」言ってしま
って彼女は少し照れた。恭介は「はっはっはっ」と豪快に笑った。彼の頭の中に
これからの人生について、真剣に話し合った日の若い二人の姿が浮かんだ。
「若かったんだよなあーホント二人とも」
「ねえ私たち理想の結婚生活だったでしょう。」念を押すように言う淳子に恭介
も「うん」と力強く頷いた。「ねえ 今度生まれ変わっても恭介さん又私と結婚す
る?」言いながら淳子は自信がなかった。恋している時は知らず、私はいい妻で
はなかったのではないか、優しくなかった、可愛くなかった。いやいや待てよ、一
人の女性として、母としてはそれなりに頑張ったじゃないの。問題は妻としてだよ
ね。
 恭介は黙っていた。「遅い、返事が遅い」淳子は焦った。恋をしてお互いに望
んで結婚したんじゃない、まさか嫌だとは。もし次の世は私と結婚したくないと思
っているのなら許せない。
 淳子はもう一度恭介の顔を見た。彼は淳子と目が会うと笑った。淳子にはもう
一度催促する勇気はなかった。その代わり心の中で思い切り毒づいた。
「あなたが私ともう結婚したくない思っているなら、それはあなたに人を見る目が
なかったということでしょう。私たち三年も付き合ってこの人、と思って結婚した、
そうでしょう。」
 悔しいけど私は人を見る目があった。恭介は五十年前も今も私の思った通り
の人、今でも大好き、世界中で一番好き!!
 淳子は心の中で大声で叫んでいた。そしてこんな悔しいことはないと心底思っ
た。彼女は恭介と来世も結婚したいと思っているだけではなかった。
今生と全く同じ人生を彼と歩きたいとさえ思っていた。

 二、三年前淳子たち中学からの親友三人が集まった時、来世も今の夫と結婚
するか.....という話になった。二人は見合い結婚で幸せそうに見えた。
 二人が口を揃えて「ええ、そんなこと考えたことなかったけど...そうねえ」と考え
こんだ。そして一人が言った。「私結婚する時主人のこと、好きとかいう感情全然
なかったのよ。ただ嫌でなかっただけ。そしてまあまあいい人生だった。だけど
来世は別の人生歩いてみたい。だから当然夫も別の人になるよね」「そうねえ、
私は今度は淳子みたいに大恋愛して結婚したいわ。私も今が嫌だったわけでは
ないけど、やっぱり違う人生生きたいなあ。」
 淳子は黙ってしまった。私はもう一度恭介と結婚したいとは、ちょっと照れくさく
て言えなかった。「淳子は当然また恭介さんと結婚するよね」二人が口を揃えて
言った。淳子はふっふっと笑って誤魔化した。
 そうそんなこともあったなあと淳子我にかえった。

 秋の日はもう傾きかけて辺りは夕光に包まれ、海は茜色のさざ波が揺れていた。
その光景を見て恭介は突然遠い遠い昔を思い出した。
 あの秋の日二人でここに来た。付き合って半年淳子は愛らしくて、恭介は一時も
離れたくないと思った。そして真剣に付き合いたいと淳子に言った。彼女に異存は
なかった。黙って瞳を見つめあった二人の顔が夕陽で赤く染まっていた。
 恭介は心の中で大声で叫んだ。
「淳子どうしてそんなことを聞く? この海辺で話したこと僕が忘れているとでも思っ
ているの。結婚する時誓った約束、僕は誠実に守った、当然のことだ。
そして淳子だって同じだろう。幸せだった今生と同じ道を又来世も二人で歩こう。
子供たちだってきっと大賛成だよ」

 恭介は海を見ている淳子の肩に手を置いた。振り返った淳子の顔が、半世紀前
の愛らしい淳子に見えた。夕陽が一際明るく燃えたような気がした。
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平成シニア物語  結婚記念日 終章 [平成シニア物語]


 中途半端な気持ちのまま一週間が過ぎた週末、「海へ行ってみないか」と
和也が祥子をさそった。そうだいいかもしれない、いつもと違う場所でなら
このもやもやした気持ちを、何とか出来るかもと祥子は思った。
 快晴の土曜日二人は車で出発した。高速を二時間足らず走ると目的の
海辺の街についた。ホテルから見える海辺は、夏休みということもあって、
大勢の人で賑やかだった。
 ぎらぎら照りつける太陽は真っ青な海によくマッチしてここでなら人も何
となく開放的になるように思えた。「ああ夏は海もいいわねえ。」祥子は少し
はしゃいでいた。
 夜には花火大会もあって、昼間より大勢の人が次々に打ち上げられる
花火に歓声をあげている。
 和也と祥子はホテルのテラスから眺めながら、何度かの夏、この海で
二人でこんな夜を楽しく過ごした日のことを思い出していた。
 花火もおわって辺りが鎮まり返ると、波の音がすぐ近くに聞こえた。
空には銀河をとりまく無数の星が輝いている。
 テラスの椅子に座って冷たい麦茶を飲むと、祥子が口を開いた。
「ねえ和也さん、何か話があるんでしょう。」和也は真っ直ぐに祥子を見た。
その顔は心なしか苦しげに見えた。「三田陽子のことだけど」「分かったわ」
祥子が遮った。「何も言わないで、私聞きたくない。あの夜からずっと考えて
いたの。そしたら思い出したの、三田さんって結婚記念日の日和也さんと
デパートにいた人だって。私のブローチを選んでくれた人だって。そしてその
時私すぐ分かった。和也さんこの人のこと好きになったんだ....って。私混乱
してしまって、何も考えられなくなって、どうしょう和也さんは私より彼女の方
が好きなの、それとも同じくらい、いやいやそんな筈ない、変なこと考え続け
て頭のながて堂々巡り、実のところ仕事も家事も上の空、和也さんが彼女の
ことに触れないのをいいことに、私逃げていたの。」祥子は一気まくしたてた
その声がだんだん高くなった。「祥子待って落ち着いて、僕の話も聞いてよ」
和也が落ち着いた声で言う。「嫌っ私聞きたくない、私の結論から言うわ。
二人の関係がどうあろうと私貴方を信じることにしたの、でももう一緒には暮
らせない。夏休みが終わったら私が家を出ます。三十年も仲良くやってきて
本当に残念だけど、私の決意は変わらない。これでも一生懸命に考えたの、
私の我儘を許して下さい。」言い放つと祥子は部屋に入った。止らない涙を
和也に見られたくはなかった。
 和也はただ黙って暗い海を見ていた。祥子を追ってはこなかった。

 本当に暑かった夏の終りに祥子は家を出た。彼女が借りたマンションは
この家から電車で三十分ほどのところにあった。ここなら会社にもそう遠くは
ないし、やっぱり和也から遠く離れるのは心細かった。

 何も言わずに祥子の言い分に従った和也は、その後もずっとわが家にいた。
和也は初めて陽子に「部長さんが好き」と言われた時「冗談言うな」と笑い飛ば
したが内心心が動いた自分にも驚いた。
 和也の祥子への愛は、結婚してからも変わることはなかったし家庭にも祥子
にも何一つ不満はなかった。子供がいなかった分、二人の愛情はかえって深
まったのかも知れなかった。
 だから二人の間に陽子の入り込む隙などなかったのだ。
ただ陽子は違った。早くに父を亡くしていた彼女は和也の中に父を見た。それ
がいつしか、胸の中で、大人の異性にたいする愛に変わっていったのだろう。
彼女の若さが分別をなくしていた。
 部内で大きな仕事が一段落して打ち上げがあった夜、マンションまで陽子を
送って行った和也は、彼女にせがまれるまま部屋に入り、ついにたった一度の
過ちを犯してしまった。
 この時のことを思い出すと和也は情けなくて身の縮む思いがする。酒のせい
などではない、祥子を裏切った自分を責め、若い陽子に申し訳ないと眠れぬ
夜が続いた。この償いだけは何としてもせねばならぬと和也は固く決意した。
 陽子は積極的に和也に近付いてきた。祥子のプレゼントを買いに行った和也
の前に突然現れたり、祥子のいない自宅にやってきたり。
 陽子は素直で優しいだけではなく、仕事も良く出来たので男性社員の中には
彼女を好ましく思うものもいた。
 和也は陽子に何度も何度も自分の大きな過ちを詫びた。自分の陽子に対す
る気持ちは父親のようなものだと根気よく誠実に訴え続けた。
 そしていつしか本当に父親の気持ちで陽子に寄り添うようになっていった。
 陽子にも和也の誠実さは少しづつ伝わり、彼の気持ちや立場を理解するよう
になり二年が過ぎた。そしてこの春、同僚との結婚が決まった。

 和也は祥子に会いたいと思った。この二年間、その気持ちを抑えてきた。
陽子のために彼女が幸せな自分の道を選ぶ手助けが出来たら、どんなことを
しても祥子に自分の過ちを詫び、許しを乞いたいと思っていた。
 いつか祥子の許に帰るという思いは一貫して変わることはなかった。そして
いくら離れていても、会わなくても自分に対する祥子の気持ちも決して変わる
ことはないと信じていた。
 和也はこれからの余生を、生ある限り祥子と一緒に生きたいと思った。
 今日その想いを一通の手紙に託して祥子に伝えた。
三十二回目の結婚記念日、いつものあの店で会いたい。来てくれることを信じ
ている....と。
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平成シニア物語  結婚記念日 1 [平成シニア物語]

 祥子は何度も鏡の前に立った。"やっぱりこれだ これにしょう"と呟いて
からし色のワンピースにページュのジャケットを羽織った。
胸にはあのブローチを付けた。
 二年振りに会う和也を思うと年甲斐もなく、少し浮きうきしてしまう。

 祥子は今頃になってやっと二年前のあの日のことを、平静な気持で振り
返れるようになった。あの時自分のとった自分本位の強引な態度を、深く
反省し和也に詫びたいと思っていた。そしていつの日にか彼が戻って来て
くれるのを念じて待ち続けた。


 あの日和也と祥子は三十回目の結婚記念日を、いつもの店で食事をし
て祝おうと約束していた。
 祥子は少し早めに会社を出て和也へのプレゼントを買うためにデパート
へ立ち寄った。前からかれが欲しがっていたセカンドパックを買って、エス
カレータの方へ歩きかけた時、あれっ和也だ!声をかけそうになって止めた。
和也の側に若い女性がいるのに気が付いたから。
その女性は和也に小さく手を振ると足早にエスカレータを下りていった。
 祥子は和也に声をかけそびれて、エレベータで下りた。誰だろう、会社の
人かな?少し気になったが、そのまま約束の店に向かった。
 五月の終わりの夕暮れは街も少し華やいで、行き交う人々も楽しげだ。
街路樹の間から洩れる夕光が道路を染めて美しい。
 祥子は歩きながら、和也と恋をし、結婚して何の不満もなく過ごしてきた
この三十年余のことを思いおこしていた。子供には恵まれなかったが、祥
子は幸せだったと思った。和也は真面目で優しかったし、仕事も建築士と
して自分で選んだ道を真っ直ぐに歩いてきた。
 店に着くと主人が軽く会釈をして奥の部屋に目をやった。和也はもう
来ていた。「早かったのね」「うん僕も今きたところだよ」二人は運ばれて
くる料理に舌鼓をうちながら大満足、お酒があまり強くない和也も今夜は
楽しげでいつもよりよく飲んだ。「ここの料理はいつも美味しいよね。今日
は一寸記念日で....と主人に言っておいたからね。」まあそんなことと祥子
は少し可笑しかったが和也は上機嫌だった。
「はいプレゼント」和也は照れくさそうに小さな箱を祥子の前に置いた。
「有難う、何かしら」言いながら箱を開けると真珠のブローチだった。
薄い黄色と象牙色の真珠の花束のデザイン。「まあきれいね。嬉しいわ
有難う」「今夜の服に似会うと思うよ。付けてみたら」そう言って和也は笑
っている。祥子は「これ和也さんが選んで.....?」祥子の脳裏にデパートで
みた若い女性の顔が浮かんだ。「うん一人で買いに行こうと思っていたら
会社の女の子が一緒に見てあげる、と言ってね。」悪びれずにそういう
和也を見て、祥子はさっき少しでも彼のことを疑った自分を恥じた。
祥子のプレゼントも和也は嬉しそうに何度も肩にかけて見せた。
 帰りはタクシーにしょうと和也が言ったが、祥子は今夜の記念日もっと
もっとゆっくり味わっていたかった。
 電車を降りてわが家に続く夜道を二人は腕を組んで仲良く歩いた。
爽やかな夜風が心地よかった。今夜のこと忘れないようにしょう。
祥子は心の底からそう思った。 
夏になり祥子は会社の気の合った友人と、二泊三日で信州の高原へ旅
に出た。子供のいない気軽さから、和也が文句を言わないのをいいことに
彼女は季節ごとのこんな小さな旅をよくした。和也も家事は平気で二、三
日ならなんでもないと気持ちよく送り出したくれた。
下界とは違って高原は涼しくて色とりどりの高山の花に心が安らいだ。
 その日予定よりかなり早く帰宅出来そうだつたので、祥子は今夜の食事
は和也の好物のステーキにしょうと、張り切って帰って来た。
 ドアを開けると玄関に白いサンダルがあった。お客様かな、?「だだ今」
祥子は元気よく声をかけた・一寸間があって和也が出て来た。「お帰り、
随分早かったんだね。」「お客様?」「うん会社の三田君、何だか近くまで
来たと寄ってくれたんだ。」と和也はいつもと少し違う口調で言った。
三田さん、聞いたことのない名前だったが、祥子は戸惑い気味にリビング
に入った。若草色のワンピースを着た美しい若い女性が、ソファの横に立
っていた。「初めまして、お留守にお邪魔しています。三田陽子です。部長
さんにはいつもお世話になっています。」女性は落ち着いた様子で挨拶し
た。「あらいらっしゃい、祥子です。一寸着替えてきますね」祥子は笑顔で
そう言いながら自分の部屋に入った。どこかで見たことがあるような気が
した。食事に誘うべきか、でもステーキは二切れしかない、祥子の頭は少し
混乱している。和也が部屋に来て「三田君帰ると言っている。」それだけ
言うと出ていった。祥子はいつもと違う和也を見たような気がしたがゆっく
り着替えをすると、ひとつ深呼吸をしてリビングにいった。
陽子はすでに玄関に立っていた。「あら三田さんもうお帰りですか、ゆっく
りなさったらいいのに。おかまいも出来なくて.....ごめんなさい」
「有難うございます。本当に申し訳ありませんが今夜はこれで失礼します」
祥子の言葉を待たず陽子は帰って行った。
 ふたりだけになったリビングに気まずい空気が流れていた。祥子は言い
たいことがいっぱいあるような気がしたし、何もないような気もした。
和也も黙ったままだ。祥子は食欲はすっかり無くなって、ステーキを焼く気
力も失せていた。「ねえ今夜の食事あり合わせでいい?私疲れちゃった。」
三日間も和也を放って遊んできた自分が、口にする言葉ではなかった。
本当は心をこめてステーキを焼くつもりだったのに。和也も「うんいいよ」と
気のない返事をした。
 祥子は楽しかった旅の話をする気にもなれなかった。和也も三田陽子の
ことには触れずに早々とペットにもぐりこんだようだが、何度も寝がえりを
打っていた。二人にとって長い長い夜になった。

 
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平成シニア物語  忍ぶ草  終章 [平成シニア物語]

 その年の秋、紗江の水墨画が県展で最高の知事賞を取った。
植野先生も仲間も大喜びで、紗江のために祝賀会を開いてくれた。
 当然一郎も駆けつけた。
皆から贈られた沢山の花束と拍手に囲まれて、紗江は水墨画に手を染めて
からの、十五年の月日を感慨深く思い浮かべた。「紗江さんおめでとう。とう
とうやりましたね。」と一郎は紗江の肩にそっと手を置いた。
 紗江はしばらく動悸がおさまらなかった。どんな花より一郎の手のぬくもり
が嬉しかった。
 その夜一郎が星を見に行きましょうと紗江を誘った。タクシーで三十分ほど
走ったろうか。郊外の造成されたばかりの住宅団地の奥の丘の上。まだ家は
建っていない。地上の灯りは所々に立つ街灯だけ。
 濃紺の空に月が煌々あり、無数の星が天井を埋め尽くして輝いている。
紗江は「まあきれい」と言ったきりあまりの美しさに後は声にならなかった。
「三十分したら迎えに来て下さい。」一郎はそう言ってタクシーを帰した。
 「どうです、紗江さんきれいでしょう。僕は貴女へのお祝いはこの星空が一
番似合うと思いました。そしてきっと気に入ってくれるだろうと。」
 「有難うございます、嬉しくて.....」紗江の声が途切れた。つい涙があふれた。
 二人はコンクリートのベンチに腰掛けて、降るような星空を黙って仰いだ。
時々通り過ぎる風の音以外、すべてが静寂の中にあった。


 県展の会期が終り、紗江の身辺も少し落ち着いた頃、彼女は一つの決断を
した。
 もう西尾一郎には会わない。潔く先生の前から姿を消そう。誰のためでもな
い自分のために。これ以上彼の近くにいることに紗江は耐えられなかった。
 生れて初めて知った恋、それも相手は妻子ある一回りも年上の男性。
彼の気持ちなぞ全然分からないし、知りたくもなかった。ただ紗江は自分の
恋を信じたかった。その想いを大切に大切にしたかった。しかし、そのために
人の道を踏み外すようなことは出来なかった。
 どんなに辛くても切なくても、これが自分の取るべき一番いい道だと思った。
 紗江は会社を辞めた。誰にも何も言わずに下宿を引き払い姿を消した。
 驚いた一郎は八方手を尽くして紗江を探したが、身寄りのない彼女のことを
知る人とてもなく、見つけ出すことは出来なかった。

 それからの紗江は大都会の片隅で、やっと見つけた小さな印刷会社に就職
した。もう若くはない彼女にとって初めての大都会での生活は、決して平坦な
ものではなかった。でもどんな時でも紗江はくじけなかった。
新しい暮らしに慣れてくると、都会でしか見られない絵画を見に美術館に足を
運び、音楽会にも出かけた。今の自分の生活を少しでも潤いのあるものにした
いと、常に前向きだった。気ごころの通じ合う何人かの友も出来た。
 自分の部屋の飾棚には一郎と二人で撮った写真を飾り、遠くで想う一郎へ
の気持ちが変わることはなかった。

 そして十五年の歳月が流れた。定年退職してこの街に戻った紗江は、真っ先
に一郎の家を訪ねた。
 もう昔のように激しい彼への想いはなかったが、小さな埋み火は紗江の胸の
奥にひっそりと燃えつづけていた。
 そしてやっぱり一郎には会いたかった。
 突然の訪問に絹子は驚きを隠さなかったる「紗江さん、紗江さんなのね....」
髪は白くなっていたが昔のままの優しい表情で紗江の肩を抱いた。「あなたは
どうして.....」後は涙で声にならなかった。
「先生は?」問いかけようとす紗江の言葉を遮って絹子は彼女を客間に通した。
「貴女にお渡ししたいものがあります。」紗江は胸が張り裂けそうな胸騒ぎを覚
えた。
 絹子は文箱から和紙の封書を取り出すと紗江の前に置いた。「主人から紗江
さんへ」くぐもった低い声でそう言った。
 絹子の話によると一郎は二年前、長く患うこともなく亡くなったのだという。
 絹子は遺品の整理をしていてこの封書を見つけた。行方の知れない紗江へ
の手紙、一体何が書いてあるのか、読みたい衝動にかられながらも、絹子は
辛うじて平常心を取り戻した。そして最愛の夫の願いを叶えてやりたいと思った。
いつか必ず紗江にこの封書を渡す日が来ると信じて待った。
 思ってもみなかった一郎の死だった。紗江は激しく動揺した。そこに居るのが
辛かった。絹子の顔を見るのが辛かった。
 どこをどのように歩いてわが家に帰ったのか。紗江はペットに倒れこむと声を
上げて泣いた。一晩中泣いて泣きつかれた夜明けに一郎の封書ゅ開けた。

  紗江さん 今どこにいるのて゜すか。貴女は僕のために、姿を消して
  しまわれたのですね。
  もし貴女がそうしなかったら、僕は消えることが出来たでしょうか。
  僕は絹子を 最良の妻だと思っています。
  それでも紗江さん貴女をを愛しく想う気持ちを抑えることが出来なかった。
  そして男らしい決断をすることも。どうか自分勝手な僕を許して下さい。
  星の降るあの丘でもう一度だけ会いたかった。       一郎

 最後に十五年前紗江が家を出た日の日付が書かれていた。
 
 紗江は一郎の手紙を胸に抱きしめて又泣いた。
「先生どうして待っていて下さらなかったのですか。」あの街を出た日の体が
引きちぎられるような悲しさと、胸が張り裂けそうな切なさがゆっくりと紗江の
脳裡に甦って来た。

 紗江はあの思い出の丘に近い団地に家を建てた。庭には花が咲く木をいっ
ぱい植えた。
そして生涯にたった一度恋した人との思い出を大切にしたいと、再び絵筆を
とった。一郎に会わせてくれた水墨画、生ある限り誠実に力強く生きよう。
そしていつか大好きな一郎に胸を張って会えるように。
 軒端に吊るした忍ぶ草の、風鈴が微かに鳴ってまた季節がめぐって行く。



 
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平成シニア物語  忍ぶ草  1 [平成シニア物語]


 若葉が薫り穏やかな陽の光と風は、時折もう夏の到来が近いことを思わ
せる。紗江は遥かな山の峰をながめながら、両手を上げて深呼吸をする。
 定年退職をしてここに落ち着いてからは午後のひととき家から歩いて十
五分程の、この高台に来るのが彼女の日課になっていた。
 造成された住宅団地を通りぬけて、一番高いところまで。遥かに遠く海も
見える。
 ここに立つと紗江が人生で一番輝いていた日々の思い出が鮮やかに甦
って来て心が優しくなるのだ。
 あまり人の影もなく、時に鳥の鳴き声がきこえてくるだけ。紗江は体操を
したりその辺を歩いたり、三十分程をここで過ごす。
 わが家に戻ると、お気に入りのコーヒーをたて、リビングのソファでゆっく
りと自分だけの静かな時間を楽しむ。


 紗江はずっと若い時、義理に縛られて不本意な結婚をした。そして三カ月
後、夫が出勤した後荷物をまとめて家を出た。夫に不満があるわけではな
く結婚そのものを望んではいなかった。
 当然のことながら親兄弟から逃れるように、見知らぬこの街にやってきて
商事会社にタイピストとして就職し自活の道を選んだ。
 頭がよくて明るくて仕事も良く出来た紗江だったが、同僚たちはどことなく
変わり者という印象をもっていた。
 紗江はそんなことにはお構いなく、自分のやりたいように生き生きと一人
であることを楽しんでいた。
 そんな時紗江がやっている趣味の水墨画の会が、展覧会をひらくことに
なった。会員たちがそれぞれ出品する絵を持ち寄ってわいわいやっている
時、主宰の植野先生が、一人の男性と教室へはいって来た。
「みなさん紹介します。ご存じの人も多いと思いますが西尾一郎先生です。
僕の高校以来の親友です。今日は皆さんの作品選びに助言を頂けたらと
お願いしました。遠慮なく相談してみて下さい。」
 西尾一郎は大学教授だが、その多才なことは皆のしるところで、水墨画
や書道は個展を開くほどの腕前だった。背が高く細身の上品な男性だった。
「植野君に頼まれる程の腕前ではないのですが、少しでも皆さんの手助け
が出来ればとやってきました。」
 西尾先生は気さくに皆の作品を見て回って、それぞれが出品する絵を
選ぶための助言をして下さった。
 その日の帰り、紗江は偶然電車で一緒になり会釈しただけの一郎が、同
じ駅で電車を降りた時には本当に驚いた。
「先生はこの辺りにお住まいなのですか。」「ええずっとここに住んでいます」
「私はつい最近越して来たところなので。水沢紗江と言います。植野先生に
はもう五年以上も教わっているのですがあまり上達しません。」と小さい声
で言った。「ああ貴女の絵憶えていますよ。「睡蓮」ともうひとつ「山荘の秋」
でしたね。なかなか良く描けていましたよ。」一郎はさらりと言った。
 紗江は感激した。今夜は十五、六人もいて沢山の絵があったのに数時間
で先生が自分の絵のことを、憶えていて下さったなんて.....」並んで自宅へ
の道を歩きながら、紗江はこの上なく幸せな気持ちになった。
 この夜から紗江は一郎に心魅かれるものを感じるようになった。そんな
自分に一番驚いているのは紗江自身だった。もともと男性には全然関心が
なかった。だから三十半ばの年になっても結婚しなかったし、勿論恋もした
ことはなかった。だから一回りも年上の一郎に対する感情も、恋ではないと
自分は思っていた。
 その後も時々一郎は植野の教室を覗くようになり、時には指導してくれる
こともあった。紗江は一郎が来た時はじぶんでも可笑しいほど張り切って、
懸命に絵を描き、彼の助言はひとことも聞き洩らすまいとつい力が入った。
 帰りはよく一緒に電車で帰った。一郎は妻と二人の子供の話もして、家も
近いことだしいつでも遊びにいらっしゃいと何度も誘ってくれた。紗江は嬉し
かったが、その言葉に甘えることはできなかった。
 紗江はその間もせっせと一郎の著書を読み、講演があれば出向き、書や
水墨画の個展には必ず出かけた。紗江の一郎への思いは募るばかりで、
時が流れて行った。
 ある年のクリスマスイブに一郎は一人よりは楽しいでしょう、といつになく
強引に紗江を誘った。紗江も思い切って西尾家を訪ねることにした。
 長男はもう家を出ていたが、娘の都と美しくて気品のある一郎の妻絹子
は笑顔いっぱいで「貴女のことはいつも主人から聞いているの。物静かだ
けどあの人は一本筋が通っているって。水墨画もお上手だといつもそう言
って褒めています。」言いながら初対面の紗江を大歓迎してくれた。 
 一人が良い、それで満足だと思い続けていた紗江はこの夜、初めて人と
一緒にいることの暖かさと、心地よさを知った。
 賑やかに食事をしたり、音楽を聞いたり、先生の絵を見たり、本当に楽し
い夢のような時間だった。
「紗江さん、こんなに近いのだからまた来て下さいね。主人が人を家に招く
なんて滅多にないことなのよ。きっと貴女のこと気に入っているのだと思う
わ。」後片付を手伝ってキッチンで洗い物をしている時、絹子が楽しそうに
紗江に囁いた。紗江は胸の辺りが少しざわめいたが、心からそう言って
くれている様子の絹子の気持ちを、本当に素直に嬉しく思った。
 こうして紗江と一郎一家の付き合いは続いた。絹子も紗江のことを気に
入って、買い物に誘ってくれたり、一郎の個展にも連れ立って出かけた。
 その間紗江の水墨画はめきめき上達して、県展に初入選した。
 その頃には一郎と紗江はよく喫茶店に行き、話題の豊富な一郎の話を
聞きながら、ただ一郎と一緒にいられるだけで紗江は幸せだった。一郎に
特別の感情はなく、紗江に対して気心の通じ合う、年下の可愛い妹くらい
の気持ちではなかったろうか。
 時が流れるにつれ、紗江の気持ちは微妙に変化して、いつしか一郎を
慕う気持ちがどんどん大きくなっていった。
 一人の人間として一郎を尊敬し、憧れにも似た気持ちでずっと彼をみて
きた紗江だったはずなのに。

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平成シニア物語  忘れ霜  終章 [平成シニア物語]


  敬の手紙

 四十数年振りに突然お手紙を差し上げる失礼を、まずお許し下さい。
加奈さん、こう呼ばせて下さい。私は高校生になって、初めて貴女に会ったその
日からずっと貴女を見続けてきました。
 今更こんなこと言われても加奈さんには迷惑で、何の関係もないことだと思わ
れるでしょうが、今どうしても貴女に聞いて頂きたいのです。
 私にとって加奈さんは、紛れもなく初恋の人です。生涯たった一度の恋。でも
私はこの気持ちを貴女に伝えることが出来なかった。勇気がなかったのです。
 高校時代は学校に行けば、遠くからでも顔を見ることが出来私はそれだけで
満足でした。
 私は大学に入るため上京することになった時、貴女との糸が切れてしまいそ
うで考えた末、年に一度の年賀状に私の気持ちを託しました。そして貴女から
来る年賀状がどんなに嬉しかったことか。
 何度も手紙を書こうと思いました。でも年月が経ち少し落ち着いて考えてみた
時、私と貴女の住む世界の違いに気がつきました。
 加奈さん貴女は裕福な家庭で大切に育てられた深窓のお嬢様です。私は戦
争で父を亡くし、母一人の手で育ち、その日の生活も苦しい貧乏人です。
 私はこの境遇を恥じたことも恨んだこともありませんが、やっぱり貴女とのお
付き合いは無理だと考えました。
 私は大学卒業を機に貴女のことを忘れる決心をしました。黙って諦めようと
思いました。でも最後にもう一度だけ加奈さんに会いたい気持ちを、抑えること
が出来ず、あの日駅で会う決意をしました。加奈さん貴女が来て下さるかどう
かなど考える余裕は私にはありませんでした。
 実はあの日貴女に会うまでは、お茶でも飲みながら、今までの一方的な僕の
気持ちを話して謝りたいと思っていました。
 でも駅で貴女を見た時、そうすることは私自身か゛もっと辛く惨めになることだ
と気がつきました。姿を見ただけでこんなに苦しいのに言葉など交わしたら....
 黙っていよう。この決断は正しかった。
 プレゼントのアルバムも、全く私の独りよがりであることは承知していますが
加奈さんを想う度に、私の胸の中でいっぱいになった貴女の姿を、すべてあの
アルバムに移してしまうことで、きっぱり貴女と決別し、自分の心の整理をしよ
うと思いました。
 そうすることは思ったより苦しかったけれど、時はそんな私を少しづつ落ち着
かせてくれました。
 そんな時貴女が結婚したことを知りました。私の中で何かが崩れて行き、心の
中がふっと軽くなったような気がしました。加奈さんをはっきり遠くに感じた一瞬
でもありました。
 私もここからきっぱりと自分の道を歩もうと決心しました。
 五年後私も結婚しました。子供にも恵まれ母も呼んで私にも一人の男として
の心穏やかで幸せな三十数年が過ぎて行きました。

 昨年の秋、私は体調を崩し検査入院をしました。そして自分の余命が多くない
ことを知りました。
 暗澹たる絶望の日々の中で、突然私は思い出しました。若い日加奈さん貴女
を好きになり、自分の想いだけで一方的に非常識な行動を取ったことを。
 貴女は何も知らずに、不可解な気持ちのまま長い年月を過ごされたのではな
いだろうかと。
 私はこのまま貴女に黙って逝くことは卑怯だと思いました。
 貴女は私のことなど憶えてはないかもしれませんが、もう一度だけ私の最後
の我儘に付き合って頂きたいと思いました。ご迷惑だとも思いました。でもお許
し下さい。
 若かったころの貴女に対する私の純粋な気持ちが、今少しでも貴女に伝われ
ばこんなに嬉しいことはありません。有難うございました。
 加奈さん貴女の幸せをいつまでも願いつつペンを置きます。

   加奈様                                 住田 敬


 加奈は静かに目を閉じた。不思議な感動が彼女の胸に迫って来た。
自分の知らないところで、自分のことをこんなにも想ってくれた人がいたなんて。
 若い日敬に抱いた不信と疑問が、今解けて行くのを感じると同時に、こんなに
も深い敬の気持ちに、全く気付かなかった自分の幼さが今更のように加奈の心
をざわめかせた。
 加奈は押入れの奥からあの日のアルバムを出して来た。
かすかに色褪せた表紙を開けると、黄ばんだ台紙に若い日の自分の姿が次々
と浮かんでは消えて行った。「住田 敬さん」加奈は小声で呟いた。

 その夜寝付かれぬままに加奈は庭に出た。春の気配の中にも冷気が漂い月
明かりの庭の草に忘れ霜がかすかに光っていた。
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平成シニア物語  忘れ霜  1 [平成シニア物語]

 春が来たというのに急に冷え込んで霜が降りた日の午後、加奈は一通の手紙を
受け取った。
 夫の直也は今日も図書館に出かけて行った。
 加奈は午後から春物の衣替えの準備をしようと考えていた。還暦を過ぎた二人
分の衣替えなど、そうたいして時間もいらないだろうと思っていたのに、終わったら
もう三時、コーヒーで一休みする前にポストを覗いた。
 そこにあった分厚い白い封筒の宛名の文字をを見た時加奈ははっとした。まさか
と思いつつ差出人の名前を見た。「住田敬」はっきりとそう書いてある。

 敬は高校の同期生だが特別親しかった訳でもなく、個人的に会話を交わしたこと
もなかった。
 加奈が大学生になって始めての正月、数十枚の年賀状の中に住田敬の名前を
見つけて驚いた。不思議な気がした。挨拶以外なにも書いてない普通の年賀状だ。
加奈もあわてて普通に返礼の年賀状をだした。この時友だちに聞いて初めて彼が
東京の大学へ進んだのを知った。年賀状は二人が卒業するまで続いた。
 そして加奈が大学を卒業した春、初めて敬から手紙が来た。内容は簡単で「卒業
おめでとうございます。是非お渡ししたいものがあります。来週の土曜日一時国鉄
駅で待っています。」達筆でそれだけ書いてある。
 加奈は少なからず動揺した。敬に関しては何の感情も関心もなかったが、この手
紙を無視することは、彼女には出来なかった。
 考えた末加奈は敬に会ってみようと思った。加奈の家から指定された駅までは
四、五十分、高校時代に通いなれた道筋だ。
 その日加奈は少し余裕をもって家を出た。駅に着いた時隣のホームに上りの列
車が停まっているのが見えた。
 まだ時間があると思いつつ、加奈がホームに下りて二、三歩改札に向かって歩
いた時、すーと人影が近ずいて来て立止った。敬が目の前で少し笑っていた。
 驚いて加奈はそれでもやっと「今日は」と言った。敬も頷くと「お元気そうですね、
よかった」それだけ言うと、抱えていた大きな風呂敷包みを加奈の胸に押しつける
ように渡すと、くるりと踵を返して走るように上りの列車のホームへ駆け上がって
行った。
 あっという間の一瞬だった。加奈は何がどうなったか考える余裕もなくホームに
立ち尽くしていた。
 上りの列車が大きな汽笛をひとつ残してホームを出て行った。
 加奈は頭の中が真っ白になった。敬に会うことに何も期待はしていなかったけれ
ど、これではあんまりではないか。少しでも話す時間があったら、彼が何を考えて
いるのか、それだけでも知りたかった。
 加奈はだんだん腹が立って来た。失礼な敬に、そしてのこのこ出て来た自分に。
 渡された風呂敷包みが重くて、そのまま放り出したい気分になった。
ホームから出ることもせずに、加奈は次の汽車で家に帰ってきた。
 自分の部屋で、高校生の時とあまり変わっていなかった敬の姿を思い浮かべ
ながら、のろのろと風呂敷包みを解いた。
有名なデパートの包装紙に包まれた箱を開けると、アルバムが出て来た。薄い
ブルーの縮緬の布に紅や淡いピンクの桜の花びらが刺繍された表紙の美しさ。
加奈はしばし見とれていたが、他には何も入っていない。急いでアルバムのペー
ジを繰ってみたがメモひとつ入っていなかった。
 加奈は立ちあがると窓ガラス越しに外を見た。咲き始めたばかりの庭の彼岸桜
が、心細げに風に揺れている。青い空は少し霞がかかり加奈は視野の隅っこに
敬の姿を見たような気がした。

 次の年の春加奈は見合いをして会社員の直也と結婚した。彼はこの年代の男
性にしては優しく、家事や育児にも協力してくれて、二人の女の子にも恵まれて
幸せな家庭生活が続いていた。

 あの時加奈が出したアルバムのお礼状を最後に敬からの年賀状もぷっっりと
途絶えていた。それとともに忙しい生活の中で加奈の記憶の中から敬のことは
日に日に薄れていったが、あのアルバムは捨てることも出来ずに、今も押入れ
の片隅に眠っていた。

 長い時が流れた。二人の娘を嫁がせ、直也が定年退職してからは加奈は家事
からも解放されて、二人でそれぞれが比較的自由な老後を過ごしていた。
 今、思いがけなく敬の手紙から、自分の来し方に思いをはせて、加奈の気持ち
は何となく高揚していた。
 加奈はハサミを持ってきて丁寧に敬からの手紙の封を切った。
 白い便せんに小さいきれいな文字がびっしりと並んでいた。 
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平成シニア物語  葉桜の頃  終章 [平成シニア物語]

 家に帰ってから紅子はしばらくリビングのソファに座りこんでいた。
達郎は出かけているようだ。
 あれから沢野は紅子に声をかけるまで、迷ったり決心したりの繰り返しで
心が揺れたと言った。初恋の彼女のことも懐かしくて、今どうしているのだろ
うと同期生を訪ねたり、彼女の実家も調べてみたが何も分からなかったと。
 紅子は沢野のことを少し誤解していたかもしれない。本人が言うように単
純で物事を自分の都合のいいように解釈する.....。もっと軽い人だろうと思
っていた。そしてそんな人に声をかけられる自分を、そしてそれに応えてい
る自分を、心のどこかで許せない気持ちがずっとあった。
 今日の話を聞いて紅子は、随分楽になったと共に少しがっかりした。
沢野は紅子に関心があったのではなく、紅子に彼女の面影を見ただけだ。
そう、大人になった彼女を紅子の中に見つけようとしただけなのだ。
 その夜食事が終わってくつろいでいる達郎に紅子が言った。
「ねえパパ初恋の人のこと覚えている?」達郎は一瞬怪訝そうな顔をしたが
「そんなこととうの昔に忘れた。何だい突然に」あれっ達郎には初恋の人が
いたんだ。今までそんなこと聞いたこともなかったし、気にしたこともなかっ
たのに。「初恋の人ってそう簡単に忘れられないのじゃない?パパは薄情者
ね。」紅子の初恋の人は達郎だった。「嫌にからんでくるね、初恋がどうかし
た?」珍しく達郎が話に乗ってきた。「実はね」紅子は思い切って沢野とのこ
とを全部話した。少し胸がざわざわしたけれど、なんだかすっきりした。
達郎はしばらく黙っていた。紅子の見る限り彼の表情に変わったところはな
かった。「何だか都合のいい話だね。いい年をしてそんなこと言う男がいる
んだ。生真面目な紅子がころっとその気になったところをみると、彼はきっと
いい男なんだろうね。」達郎はそう言って笑った。紅子は何だか馬鹿にされ
ているようでムッとしたが言い返す言葉は見つからなかった。「それで紅子
はこれからどうする?初恋の人ごっこ続けるのかい。」顔は笑っていたがそ
の言葉は皮肉っぽくて紅子には嫌味に聞こえた。「パパはどう思うの。」
「僕には関係ないだろう。紅子の問題だ。」達郎は立ちあがるとリビングを
出て行った。こんな話愉快ではないだろう、と紅子は少し後悔をした。

 あっという間にうっとうしい梅雨が行き、殊のほか暑かった夏も終わりに
近付いた。
 その間紅子は時々沢野と二人の時間をもった。といってもコーラスの後
あの店でお茶を飲むか、そこらあたりを歩くだけだったが、紅子はこの頃
話上手で明るい沢野といる時を楽しいと思うようになったいた。彼が最初
に言ったように友だちになれるかもしれないと。
 達郎に話してしまったことで気が楽になったのだ。その後二人の間でこ
のことが話題になることはなかった。
 そんなある時沢野が車でやってきて、コーラスの後隣町の海を見に行こ
うと誘った。車なら三十分の道のりである。紅子は少し考えてから車に乗
った。「速水さん僕たちのことコーラスで噂になっているの知ってますか。」
車が動き始めるとすぐ沢野が言った。紅子は息が止るほど驚いた。全然
知らなかった。身じろぎもせずに前を睨んでいる紅子の様子に「別に気に
することないですよ。僕たちやましいことは何もないのだから。」と沢野は
低い強い声でそう言った。「それはそうだけど私はやっぱり嫌です。」
 どんな噂なのかは容易に想像出来た。紅子は愕然とした。
 夏の終りの海に涼を求める人たちが、思いおもいの場所で海を見ていた。
「海はやっぱり気持ちがいいですね。ちまちました人間世界が嫌になりま
す。」沢野も噂のことを気にしているのだと紅子は思った。いくつになっても
異性間の友情なんて難しいのかもしれない。若い時よく皆でこの話をした
けれど、中々結論はでなかった。
 沢野に声をかけられて、いつの間にか彼の初恋の人の身代りのになっ
たような気になっていた紅子。達郎とは違う明るい雰囲気の沢野にいつか
魅かれつつあった紅子。
 紅子はふうっと大きな溜息をついた。
 水平線の真上に太陽があった。あたりは茜色に染まり光る波は静かに
二人の足元に打ち寄せていた。
「今日食事して行きませんか。駄目ですよね。」沢野が言った。達郎にそう
言って出れば良かったと紅子は思った。「いつか行きたいですね。」やさし
く言う紅子に沢野が大きく頷いた。

 秋になって紅子は沢野に黙ってコーラスを止めた。沢野からは何度も電
話があったが紅子は出なかった。
 二人で海に行った日紅子は決心した。紅子が友情だと錯覚しかかった
沢野への感情が、違う思いに変わるのではないかと自信がなかった

 年の瀬も押し詰まり慌ただしく毎日を過ごしているこの頃では、紅子が
沢野のことを思い出すこともあまりなくなっていった。
 葉桜の頃から約半、紅子のなかで揺れた沢野への感情、あれは一体
何だったのだろう。

 朝から小雪の舞っていた日の午後、紅子は心をこめてコーヒーを入れ
お気に入りの白いケーキ皿にモンブランをそっとのせた。
「これでよしっ!!」紅子は大きな声で達郎を呼んだ。
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平成シニア物語 葉桜の頃 問わず語り [平成シニア物語]

 コーラスが終わると紅子は誰よりも早く部屋を出た。
広場の若葉がキラキラと陽に光ってのどかな午後だ。沢野が追って来た。
「速水さん約束忘れたのですか、それとも何か急用でも?」息を切らせなが
ら紅子の前に立ちはだかった。「いえ別に」紅子は口ごもった。「ああよか
った、余り急いでいるように見えたからあせりましたよ。」
 沢野の笑顔はさわやかだ。つい紅子も笑ってしまった。
 並んで歩きながら「又例の所でお茶にしますか。それとも天気がいいから
少し公園の辺りを歩きましょうか。」沢野はさりげなく紅子の顔を覗き込む。
「本当にいい季節になりました。外の方がいいですね。」紅子は応えて、二
人は公園の方に向かって歩き出した。
 行き交う人たちの服装も軽やかで、紅子も考え込んでいたさっきより随分
気持ちが楽になった。
 大通りをしばらく行くと、昔の城址がそのまま公園になっている広場に来た。
松や桜、柳やつつじなどの木々が沢山植えられて、季節ごとに美しい花が
咲く。
 夏には盆踊りや花火大会などがあり、市民の憩いの公園だ。大きな桜の
木の下のベンチを目ざとく見つけると、沢野がさっと大判のハンカチを出し
て敷き「どうぞ」と紅子を見た。「有難うございます」紅子はハンカチを外して
座り「大丈夫です」と言いながらそのハンカチを丁寧に畳んで沢野に渡した。
彼はだまってそれを受け取るとポケットにしまった。その仕草は自然でいつ
もの紅子なら、きざだとか、わざとらしいとか思ってあまり好きではないのに
今はそんなふうに思わない自分に不思議な気がした。
「ああよかった、また速水さんと話が出来るなんて、この前少し強引だった
から嫌われたのではと、内心心配していたんですよ。」紅子は黙っていた。
自分が喜んで、この日を心待ちしていたように思われるのは嫌だった。
「やっぱり怒っているのですか。」「いいえ私だって自分の意思でご一緒した
のだからそんなことはありません。ただ突然のことだったので。後で少し反
省はしましたけど。」「不愉快だったのですか。あまり楽しそうに見えなかっ
たけど僕は充分楽しかったです。それに今日も又お付き合い下さったのだ
から、そう深く考えなくてもいいと思っています。僕は単純ですし物事は自分
の都合のいいように解釈することに決めているんです。」沢野はそう言って
そらを見上げた。男らしい横顔だった。
「沢野さんは歌がとてもお上手ですけど、どこかで本格的に勉強なさったの
ですか。」紅子が話題を変えた。「ええまあ学生の頃グリークラブにいて僕
の大学四年間は、歌ってばかりだったと言ってもいいかなあ。」道理で、と
紅子は思った。今のコーラスは沢野には場違いな感じさえしていたから。
「やっぱりそうなんですね。それならどこかもっと他に沢野さんにふさわしい
ところがあるのでは。」「いいえもう昔の話です。それに今も張り切って行っ
ている訳ではないのですよ。家の中ばかりにいないで、あなたの出来るの
はコーラスぐらいだからと家内に追い出されましてね。」冗談とも本当とも
つかぬ口調で言って沢野は笑った。そして買ってきた缶コーヒーを紅子に
渡すと話し始めた。
 彼は両親と同居していたが数年前に相次いで亡くし、二人を介護してく
れた妻も、やっと自分の趣味に時間を使えるようになった。そして毎日の
ように出かける妻を見ながら、ぼんやりしている時妻に勧められたそうだ。
 紅子も趣味が沢山あって忙しい夫の背中をいつも見ていたから、沢野の
気持ちを何となく理解出来た。 
 「速水さんに僕が声をかけたのはどうしてだと思いますか。」突然沢野が
言った。
 二年前初めてコーラスに来た時、沢野は紅子を見て驚いた。彼女だと思
った。彼女ならこういう女性になっているだろうと思った。不思議な巡り合わ
せだとも思った。でもそんなはずはない。彼女は外国にいるはずだから。
 そしてやっぱり紅子は他人の空似で彼女とは別人だと自分で納得できる
までに半年かかった。
 彼女は高校時代の同級生で初恋の人だった。二人の想いは通じ合って
いたのに、三年生になって一年間の予定でアメリカに留学した彼女は、そ
のまま帰って来なかった。ごめんなさい、有難う、さようならと短い便りがあ
ったきり音信普通となった。もう四十余年も前のことだ。
 だから沢野のなかで彼女はもう過去の人だった。紅子に会うまではー
「速水さん僕はどうしても貴女と話がしたいと思った。そして友だちになりた
いと思いました。 そして望みが叶うまで一年半もかかってしまいました。」
 


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平成シニア物語 葉桜の頃  夕暮れて [平成シニア物語]

 ありふれた一週間が過ぎ、紅子の中のもやもやも少し薄れかけたある夕方
達郎が珍しく散歩に行こうと言った。夕食の支度も大体終ったところだったの
で、紅子も快く一緒に出かけることにした。
 家の近くにある市のグランドを取り囲むように、樹齢四、五十年にもなる楠の
並木が続いている。紅子のお気に入りの道である。
「珍しいのねパパが散歩に誘ってくれるなんて。」達郎は笑って「たまにはいい
だろう。紅子に見せたいものがある。」とさっさと先を歩いて行く。十分も歩くと
グランドのはずれに、小さいみかん畑の丘があって、その真ん中あたりにこん
もりと竹林がある。その細い道で達郎が足を止めた。
 春の終わりの夕暮れ今まさに沈みかけた太陽が、風にそよぐ竹群の間から
真っ赤に燃えるように輝くのが見えた。「うわっきれい!!」紅子は思わず大声を
あげた。達郎も黙って見つめている。
 紅子はふとずっと前、同じ情景を見たような気がした。そしてとっさに思い出
した。

 あれは海、達郎の生れた町の海だ。三年余りも付き合って、二人が結婚を
決めた春まだ浅い頃、初めて彼の実家に行った日のことだ。海に沈む夕日で
全身赤く染まった達郎が、紅子に大きな声で言った。「これからは二人で頑張
ろう。いつまでも今のこの気持を忘れないようにしょう。」紅子は力強く頷いた。
幸せだった。

「この前ここを歩いていて偶然この夕陽を見たんだ。美しくて神々しくて。しば
らく動けなかった。感動した。そして紅子に見せたいと思っていたんだよ。」
 あの日から四十年余もの月日が流れた。今また二人で夕陽をみている。
達郎はあの時の夕陽を覚えているのだろうか。紅子はすぐにもその話をした
かったが、今は落日の光の中に浸りきっているような達郎に声が掛けられな
かった。二人は黙って陽が落ちてもまだ明るい大楠の並木を家路についた。
 食事が終ってニュースを見ると、達郎はいつものように自分の部屋に入る。
紅子はひとりリビングでテレビを見ながら、こういう生活がもう随分続いてい
ると思った。でも紅子はそれが不満なのではない。若い時からお互い納得づ
くで、そうしてきたのだから。と思いつつ紅子は少し寂しい気がした。私も年な
のかなあ、あんなに一人が好きだつたのに。と心の中で呟いた。
 
 翌月のコーラスの練習日、紅子は部屋の入口で沢野を見かけた。「やあ」と
手を上げた彼は、少しぎこちない紅子を気にする風もなく、みんなに明るい声
で挨拶している。
 いい季節でいい天気で、みんな若返ったようないい顔をしていた。自然にコ
ーラスの声も弾んで練習もうまくいった。
 紅子は歌いながら考えていた。次もまたここに来ましょうと言った沢野の声が
今更のように耳に甦ってきた。どうしょう、あの時はあまり楽しくもなくて自分に
あきれていたのに、今日誘われれば断りきれないのではないか。断る理由も
ないか....と思ったり。もしかしてあの時とは違う沢野を見つけることが出来る
のでは....。紅子は自分の気持ちをはかりかねていた。色々考えること自体が
おかしいのではないか。結局自分は沢野と話がしていのではないか....。堂々
巡りの考えがそこに行きついた時、紅子はドキリとした。
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