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小説 鈴のふるさと  はじめに [鈴のふるさと]

 丘に続く竹藪に沿った細い道だけは昔のままで、夏の気配を残して白く
ちぎれた雲間から太陽がのぞいているがもう暑くはない。
 鈴は早足で歩く。少し汗ばむうなじにハンカチを当てながら、故郷に来た
のは何年ぶりだろうと思う。
 ここには鈴が小さかった頃の記憶にあるものは殆どない。山の形や丘の
たたづまいこそ昔のままだが、あのどこまでも続いていた風にそよぐ緑の
水田、秋には見事な黄金の稲穂が実った田圃はどこに行ったのだろう。
 登って来た丘の上には昔のままに大きなせんだんの木の下に忠魂碑が
あり、その前にある石段に鈴は腰を下ろした。
 ここからはかっての村の中心部がよく見える。役場 農業組合 小学校
中学校 駐在所 バス停、今はそれらの姿はない。平成の大合併によって
統合移転したらしい。ポツンとみえる赤い屋根は鈴の知らない保育所だ。
 周囲を低い山に囲まれた盆地のこの村も、昭和二十年頃には人口四千
人余り、十八の部落があり、小さいけれど豊かで穏やかで楽しい村だった。
今丘の上から見下ろしている鈴の目には、あの頃の村の姿が鮮やかに
甦っていた。

 鈴も来年三月には長年勤めた会社を定年退職する。子供たちも親元を
離れ、すでに悠々自適の生活に入っている夫は、やりたいことがいっぱい
ある人で、鈴をかまってくれそうもない。私は仕事を止めたら何をしたらい
いのだろう。何がやりたいのだろう。このところ鈴はそんなことを考え続け
ていた。
 ある夜鈴は夢をみた。広い広いクローバの原っぱに、しろつめ草の白い
花がいっぱい咲いて、大勢の子供たちが遊んでいる。鬼ごっこをしている
男の子、女の子は座って首飾りやかんむり作りに余念がない。
突然一人の男の子が走ってきて、女の子が頭につけていた花のかんむり
を取って逃げた。
ワアーッと泣く甲高い女の子の声で鈴は飛び起きた。鈴の脳裏に今の夢
と全く同じ光景が浮かんだ。泣いたのは鈴、逃げたのはこくちゃん。
 この夢を見たことで鈴はやりたいことが分かった。
 まだ自分の記憶が確かな今のうちに、鈴の子供の頃のことを書き残して
おこう。
 祖父母や、父母や近所の優しい大人たちに見守られ、可愛がられて、健
やかに、のんびりと賑やかに、皆が笑っていたあの時代のことを。
 いつの日にか子供や孫たちがこれを読んで、鈴おばあちゃんのことを、
思い出してくれたら嬉しいなあ。鈴はわくわくしてきた。

 今も世界のあちこちで争いが絶え間なく続き、七十年近く保たれてきた
この国の平和だって、このところ急速に思い出したくもない、あの暗い時代
に逆戻りしつつあるようで鈴は不安だった。彼女はいつも思っていた。
「私たちの世代は本当に幸せに生まれついた.....」と。もう五、六年早く生ま
れていたら、学徒動員だって他人事ではない。もっともっと戦争と真正面か
ら向き合わざるを得なかっただろう。
 あの頃友の何人かは白木の箱に納まった父を、何も知らずに迎えた。
鈴の戦争は、いつもひもじくて代用食のさつま芋やかぼちゃが嫌いだった
こと。空襲警報のサイレンが鳴ったら、どこにいようと飛び込んだ気味の悪
い防空壕のことくらい。幸い村には爆弾も焼夷弾もおちなかったから。

 鈴は立ちあがると、もう一度ゆっくりと回りを見渡し、目を閉じて大きく
深呼吸した。

 太陽はすこし西に傾き辺りの空や雲や鈴の村を赤く染め始めていた。
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