平成シニア物語  ゆく秋に [平成シニア物語]


 要三と綾、二人が職場結婚してもうすぐ三十五年になる。
 結婚に積極的だったのは要三の方で、若い時の綾の美しさは、職場でも
目立っていた。
 同期や後輩が次々に結婚して退職していく中で、まわりの予想とは違って
綾は恋愛をすることもなく年を重ねて二十八歳の時、要三の熱望にとうとう
結婚した。
 綾は大人しい性格だったが、芯はしっかりしていて笑顔の蔭に、時折人を
寄せ付けない冷たさが顔を出すこともあった。要三はそのことに気がついて
いてふとよぎる得体の知れないそういう不安な感情から目をそらせていてこ
とは確かだ。
 当時は結婚して子供が出来たら、退職するのが常だったが二人は頑張った。
 二人の子供を育て家も建てた。どんな時にも弱音を吐かず、仕事も家事も
一生懸命の綾を、要三も精一杯支えて来た。
 下の子供が独立して家を出た十年ほど前に一度、要三は綾に仕事を止め
て、少し自分のやりたいことでもやったら......と持ちかけた。
 共働きはどうしても女性の負担が多くなるし、生活にも多少余裕が出来た
今、それは要三の妻へのいたわりと感謝の気持ちだったがー。
その時綾はためらうことなく、即座に仕事を続けたいと言い切った。綾の中
に仕事に対する愛着があった訳でもなく、仕事を止めてまでやりたいことが
有るわけでもなかった。ただこれからの日々、要三との生活がすべてになる
のは嫌だ....と思った。
 経済的にもゆとりが出来るし、老後のことを考えると、綾の判断が間違って
いるとも思えなかった要三は、綾がよければそれもいいと思った。
 
 定年退職してからの綾は、六十歳にして初めて知った自由を満喫している
ように見えた。堰を切ったように茶道や華道を始め、公民館の写真教室や、
コーラスにも顔を出して、今までとは全く違った交友関係も生れて、要三の
知らない人からの電話もよく架かって来た。
 最初の頃要三は水を得た魚のように、毎日を生き生きと過ごしている綾を
頼もしくさえ思っていた。しかし毎日綾が出かけてしまうと家の中はしんとし
て、夜も帰りが遅くなると、要三はテレビを見ながら一人で食事をすることが
多くなった。そんな時の何だか寂しい気持ちは彼の想像以上のものだった。
要三にも飲み友達や、ゴルフ仲間はそれなりにいた。
 しかし伴侶とはそういう人たちとは全く別の存在ではないのか。子供が巣立
って、夫婦だけになった時の生活がこんな味気ないものでいい筈はない。
 二人で築いた家庭、育てた子供たち、二人だけの歴史はこれからも続いて
いくし、それは今老境に入った二人にとって暖かくて大切なものではないの
だろうか。要三は考え続けた。
 要三と綾、今二人は一つ家に居るというだけで、全く心の交流が無かった。
要三は綾の考えていることが皆目分からなかった。生活に必要な話はする。
しかし綾が今何処で何をしているか、出かけるときに聞けば応えたのだろうが
いちいち聞くのもなんだか詮索しているようで、つい口をつぐんで来た。
 要三にも綾に対する昔のような情熱はもうないのかも知れない。しかし夫と
妻だけの大切なもの、それは永遠に消えるものではないと彼は思いたかった。
 綾はどう思っているのだろう。珍しく一緒に食事をした夜要三は聞いてみた。
「なあ綾さん、この頃一緒に食事することが少なくなったと思わないか。あんな
に仕事や育児で忙しかった時でも、家族そろってわいわい賑やかに食べてい
てのに。」
「そう言えばそうねえ、子供がいたから放っておけなかったのかなあ」綾は遠く
を見る目で呟いた。
「要さん寂しいんだ....」
その様子に要三はが彼が考えている程、綾は今の生活を不自然だとは思って
ないのだと思うと、何だか背中の辺りがうすら寒かった。
「そうねえ、じゃあこれからお互いに気をつけて出来るだけ一緒にご飯食べま
しょう。」綾は明るい声でそう言うと、何事もなかったように後片づけを始めた。

 綾はこの頃一人でいる時や、友人と趣味の時間を過ごしている時、なんとも
言えない解放感に満たされていた。
 別に要三が嫌になった訳ではない。けれど好きでもない。今更.....と思うのだ
が、考えてみれば結婚してから今日まで、一度も要三のことを愛しく思ったこと
はなかったような気がする。
 望まれて結婚して、二人で頑張って来た三十五年、綾は人並みの人生が送
れたと思っている。だから要三には感謝しているし、今の生活に不満もない。
 これから先の人生、終わるまで彼と一緒に歩いて行きたいと思っている。

 そんな人生寂しいよ。今からだって遅くはない、要三の好いところ見つけて
二人でそれを大切に守る穏やかな人生を送ったらどう? 。幸い要三はその気
満々、きっと綾の気持ちに応えてくれる。今貴女が努力しなくてどうするの、もう
長くはない人生、暖かく安らかな気持ちで終わりたいでしょう。

 もうひとりの綾が、耳元で囁き続けた。

 銀杏の美しい山の寺へ行って見ようと誘ったのは要三だった。銀杏の落ち葉
が参道を埋め尽くして辺りが明るく感じられた。
 要三と綾は並んで歩きながら、それぞれの思いに耽っていた。
 銀杏の木が晩秋の青い空を突き抜けるように伸びて、はらはらと散る金色の
落ち葉が、一入陽に映えて美しい。
 「銀杏の葉があんなに散っている、きれいね要さん」綾は自分の声がなんとな
く、優しいのに気がついて少しうろたえた。
「もうすぐ本堂だ、少し坂道だけど大丈夫かい。」要三がさりげなく歩をゆるめた。
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リンさん

いつもとはちょっと違う雰囲気のお話ですね。
こういう夫婦は多いんじゃないかなと思います。
最後は、ちょっと明るい未来が見えたような終わり方でよかったです。
「綾さん」「要さん」と名前で呼び合うふたりなら、大丈夫な気がします。
by リンさん (2012-12-05 18:24) 

dan

有難うございます。
少し傾向代えようと考えました。
お互いの呼び方で希望を持たせたいと思ったので
リンさんが、そう感じて下さったのなら成功?です。
by dan (2012-12-05 19:28) 

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