平成シニア物語  たそがれ [平成シニア物語]

 梓は肩に散りかかる落ち葉を気にも留めず丘の上に立って、遥かな灰色の
動かない海を見ていた。
じっと海を見ていると、また寂しさがこみあげて来て、もう一度夫久志の墓前に
ひざまずいた。
 「貴方が逝ってもう五年も過ぎました。私も年をとってしまいました。」梓は
小さな声で語りかけた。
辺りに人影はなく、冬の初めの風はまだ冷たいという程ではなくて、一人で久志
を偲ぶ梓の気持ちに寄り添うようであった。


 梓はもう忘れるほどの昔、職場で初めて会った久志に一目で恋をした。
ハンサムでもなく無口で、人当たりもあまり良くない彼のどこが良かったのか。
でもテキパキと仕事をこなす久志の回りには、いつも暖かい空気が流れていた
ような気がする。
 梓は猛然と自分の恋を全うした。してはならない恋だった。
 三歳年上の久志にはすでに妻も娘もいた。
 しかし梓にとって、そんなことは何の障害にもならなかった。彼女は明るい男
のようなさっぱりした気性で、周りの誰も梓がこんな熱烈な恋をする女性とは、
思ってもみなかった。
 動揺し悩み、心身ともに疲れ果てて、ただただ虚ろにその日を過ごしている
だけのような久志を、梓は励まし続け、彼の妻を説得し、久志の離婚が成立して
から一年後二人は結婚した。
 数年経っても梓は子供には恵まれなかったが、最愛の人を得た喜びの方が
大きくて、そのことはあまり苦にならなかった。
 久志は一時は自分を見失う程の葛藤の中にいたが、梓の優しさにいつしか
新しい生活に馴染んで、二人はずっと仕事を続けた。
 そのうち久志の娘の藍子が中学生になった頃、時々遊びに来るようになった。
 梓は久志が離婚を決めたの時、妻の里子に、非常識な自分の行動を許して
欲しいと謝った。そして勝手なこととは承知の上で、いつか久志父娘がお互い
に、会いたいと思うようになった時には会わせて欲しい。それだけは約束して
欲しいと懇願した。
 里子は憤りと悲しさで、どうにかなりそうな頭で、将来藍子がこの無責任な父
に、会いたいなどと思うことは絶対にないとぼんやり考え、その申し出を承諾
した。
 藍子は愛らしい素直な娘に成長して、梓のことを「おばちゃん」と呼びよくなつ
いたので、梓もつい可愛くて欲しい物を買って上げたりした。藍子が里子から
父のことを、どういうふうに説明されているかは分からなかったが、久志のこと
を一度も「お父さん」とは呼ばなかった。
 藍子が大学生になって、この街を離れてからは、もう姿を見せることもなく、
長い長い時が流れた。その間久志と梓の間で藍子のことが話題になることも
なかった。
 久志は定年になると、前から好きだった園芸を本格的に始め、特に菊作りに
は力を入れた。朝早くから黙々と作業に励み、秋には色とりどりの見事な菊の
花を咲かせた。二、三年もするとコンクールで金賞を取るほどの腕前になった。
 梓も若い時から続けていた茶道に忙しく、二人が言葉を交わすのは食事の
時くらいで、そんな時でも無口な久志から話しかけることはまずなかった。
 陽だまりの庭で作業をしている久志の様子を、リビングのガラス戸越しにみ
ながら梓は時々思った。この人に何で私はあんなに激しい恋をしたのだろう。
人の夫を奪ってまで結婚して。それでよかったのだろうか。そんなに彼を愛して
いたのだろうか.....。考えあぐねると梓はいつもふっふっと笑って自分の思いか
ら逃れていたように思う。
 それでも好い季節になって、お互いにぽっと空いた時間が出来ると、二人は
よく旅をした。リュックを背負って汽車に飛び乗った。美術館巡りやきれいな寺
の庭を見たり温泉に入ったり、たいていは一泊か二泊の小さな旅だったが、そ
んな時は久志もよく笑うし、よく喋って楽しげで、梓はやっぱり私たち仲のいい
夫婦なんだと、改めて思ったりした。

 時が行き二人が七十代にさしかかった頃から、久志が腰を痛めたのを始め
に、次々とあちこちが悪くなり二人とも家にこもりがちになった。
 料理の得意な梓が作る食事だけが、ほっと心安らぐふたりの楽しみになった。
 そんなある日、音信不通だった藍子がひょっこり訪ねて来た。昔彼女が遊び
に来ていた頃と、同じ年くらいの女の子を連れていた。
「おじいちゃんだよ」すっかり年を取り病でやつれた久志の細い手を優しくとった
藍子は、女の子の手をその手に重ね、その上に自分の手をそっと置いた。
 久志の小さくなって白濁した目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
 その様子を見た時、梓は初めて自分の犯した罪の深さを思い知った。
そこには誰にも踏み込むことの出来ない、確かな親子の絆があった。
 いくら梓がもがいても、口惜がっても後悔しても、どうすることも出来ない父と
娘だけの、優しい安らかな場所があった。
 その夜一人になった時梓は、何があろうと自分の久志への思いだけは真実
だったと、しっかり自分に言い聞かせた。
 それから二カ月後、久志は安らかに旅立った。
その日梓は生ある限り、しっかり自分の足で一人で歩いて行こう。と決心した。
月日が経ち、ともするとくず折れそうになる体を自分で引き起こし、前を見つめ
て今日まで歩いてきたつもりだった。

 遠くで船の汽笛を聞いたような気がして、梓は我に返った。
傾きかけた夕陽が、灰色の海を少し茜に染めて、梓がたたずむ丘は静かな
暮色のなかにあった。
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コメント 7

ENO

離婚・・・そして、結婚!・・・
子供は、授かることはできず…
それでも円満な生活を!?…
ドラマタッチ風…いい筋書きですね。

いつも、NICE ありがとうございます。
このところ、ネタ不足でスイマセン。
それでは、またお邪魔します。


by ENO (2013-01-29 19:36) 

リンさん

ステキ!面白かったです。
女の一代記という感じですね。
梓が自分の罪の深さを知ったくだりがいいです。
夫を奪うだけでなく、父親も奪ってしまったんですね。
そのあとで強く生きようと誓うところもいいと思いました。
by リンさん (2013-01-29 20:44) 

dan

リンさん
推敲が足りないとわかっているのにどうしょうもなくて
不安でした。やっぱり焦って書いたのは駄目ですね。
なのにリンさんのコメントとても嬉しい。作文に◎もらった子供の気分です。有難うございました。
by dan (2013-01-30 10:04) 

左見右見

短い作品の中に 梓一人の勝利がさわやかに描かれています 振り回された 里子 久志 藍子の残酷な暮らしを 読者にイメージさせることが 上手です 里子の側からも描いてくれると・・・・
そのような期待が有ります

「彼の妻を説得し、久志の離婚が成立」 あり得る
のだろうか? ここだけは納得できなかった

作品に入りすぎてしまったのかな この様な感想でもいいものなのか よくわかりません
世間の見方が 小さいのかも知れませんね

by 左見右見 (2013-02-02 00:17) 

dan

深く読み込んで下さって感謝です。
いつも感想真剣に受け止めて今後の参考にと
思っています。「彼の妻を.....」ここは梓の自分
本位の傲慢さと、里子の本性の激しさを表現したかったところです。
有難うございました。
by dan (2013-02-02 10:16) 

かよ湖

ダンさんの物語は、いつも家族のあたたかい想いが込められていていいですね。
梓の若い頃から年をかさねていく間の心情もわかり易く描かれていてよかったです。
by かよ湖 (2013-02-04 00:03) 

dan

久し振りのかよ湖さんの声とても嬉しいです。
私たちの世代の今を書きたいと思っています。
これからもご意見聞かせて下さい。
有難うございました。
by dan (2013-02-05 19:44) 

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