平成シニア物語  葉桜の頃 [平成シニア物語]


 外に出ると広場にある桜の花びらが降るように落ちて来た。「春真っ盛りだ
わ」つぶやいて紅子は青い空を見上げた。
 今日は市のシルバーコーラスの、今年度初めての練習日だ。一緒に出てき
た仲間も大きな声で歌ったので、みんなすっきりした顔をしている。これから気
の合ったもの同士でお茶を飲みに行くのが、ここに来るもう一つの楽しみでも
あった。
 紅子がここに参加してもう三年経ったが、彼女はまだ気の合う友を見つける
ことが出来ないでいた。終わったら真っ直ぐ家に帰る。そこには季節を問わず
六時には食卓に着く夫の達郎が待っている。
 でも今日は達郎に頼まれた本を買うために書店に寄るつもりだった。
「速水さん」と声がして誰かが近付いて来た。振り向くとコーラスで一緒の沢野
が笑っている。「今日は真っ直ぐ帰らないのですか。」どうやら紅子が、お茶を
一緒しないことは仲間内で「変わり者だ。」と噂になっているようだ。「ええ今日
はちょっと本屋さんまで。」「ああ丁度良かった僕もいまから行くところです。一
緒に行きましょう。」沢野は半ば強引に並んで歩きだした。
 コーラスは三十人くらいなので、いつかお互い名前くらいは覚えていた。
 沢野は退職した二年ばかり前に参加した。歌が上手くて皆にも人気があった。
しかし紅子は話したこともなかった。「速水さんご家族は?」沢野が聞いた。「子
供達は家を出ていますので、今は主人と二人です」紅子が応えると「ああわが
家と同じですね。今はもうみんなそうなるのかなあ。僕の住んでいるところも皆
そうだし、少し年代が上のご夫婦では老老介護で大変ですよ。何だか自分の
行く末を見ているようで、時には考え込んでしまいますよ。」そう言って沢野は
大きな溜息をひとつついた。「本当にそうですね。」応えながら紅子も隣近所の
様子を思い浮かべた。
 書店の入り口で別れて、用事を済ませた紅子が外に出ると沢野がまっていた。
驚く紅子に「速水さん次の練習日、お茶でも飲みにいきませんか。何だか貴女
と話がしてみていんです。」沢野は早口でそれだけ言うと紅子の返事も待たず
に帰っていった。
 紅子はバス停に向かって歩きながら、おかしな人!と沢野のことを思ったが別
に嫌な感じはしなかった。話ったって私たちにコーラス以外の話題などあるだろ
うかと思った。
 その日紅子は夕食の時達郎に沢野の話をしょうかと一瞬思ったのだが止めた。
達郎は自分に関係のない話は嫌いなのだ。というより無口で静かな彼は、お喋
りの紅子に辟易していたと言うべきかもしれない。だから余程のことがないかぎり
二人で話が弾むことなどなかった。たまに盛り上がっても、紅子が調子にのると
最後はいつもたしなめられた。
 これは今更のことではなく若い時からそうだった。だがどことなく気が合ってお
互いに絶対この人だと思って結婚した。そして今でも仲のいい夫婦だと思ってい
た。
 次のコーラスの日、紅子は今日は少し遅くなると言って家をでた。紅子はなんと
なく浮き浮きしている自分をいぶかりながらも、沢野はあの日の約束を覚えてい
るだろうかとふと思った。
 部屋に入ると固まって座っている男性陣の中に沢野を見つけて少しほっとした。
 二時間ほどの練習が終わって出て来ると、入り口で沢野が待っていた。そして
今日は!と明るく言って「速水さん僕がよく行くお店でいいですか。そちらのお気に
入りの所があれば、僕はどこでもいいですよ。」沢野は紅子が行くのは当然とい
う口ぶりで聞いた。覚えていたんだ。「いいえ別にありませんから。」紅子はそう
言いつつ沢野の隣に並んで歩いた。
 十分ほど歩くと大通りの裏手の通りに面した小さい店があった。ドアを開けると
カウンターの中にいた店主らしい女性に、沢野は軽く手を上げて慣れた様子で
一番奥の席に紅子を案内した。しっとりした照明と、通路に置いた観葉植物の緑
がうまく調和していい感じだ。
「コーヒーでいいですか。ケーキはモンブラン。」と聞く沢野に「ええ」とうなづきな
がら紅子は少し驚いた。夫もコーヒー好きでケーキはいつもモンブランだった。
 若い時はふたりでよく行ったものだ。しかしもう何年も喫茶店なんぞに二人で
行ったことはなかった。
 三、四人の客がいた。「いいお店ですね。」「ええ、ここ僕の古くからの友人の
店なんです。三年前に彼が亡くなって、今は奥さんが一人でやっているんです」
ふと紅子はさっきの二人の挨拶を納得した。コーヒーを持ってきた女性は「ごゆ
っくり」と紅子に優しい目で微笑んでちらりと沢野に視線を移した。紅子より随分
若く見えた。沢野はコーヒーを一口飲むと「速水さんと話したいこといっぱいある
ような気がしていたのに、こうして目の前にいるとさて....何から...と思ってしまい
ますよ。」と困った表情をした。紅子にだってこれという話題なんてない。
「そうだ、もしかして僕は速水さんと一緒にいたかっただけかもしれないなあ。」
沢野はそう言ってまっすぐ紅子をみた。紅子は少しうろたえて、深い考えもなく
彼に誘われるままここに来たことを後悔し始めていた。
「今日ご主人は?」「多分どこかに出かけているでしょう。写真を撮ったり絵を描
いたりするのが好きですから。」「いい趣味をお持ちなんですね。僕はここに来
る外は、もっぱらテレビみながらごろごろしていて、いつも家内に嫌がられてい
るんですよ。男って無職になるとやることが何もないんです。」
 紅子は少しがっかりした。私たちお互いの家庭のことなど話合って、何して
いるんだろう。コーラスのこと以外共通の話題がないのだから、当たり前かも
しれないけれど、沢野に誘われた時自分は一体何を期待していたのだろう。
彼のこと何も知らない、人柄さえも何ひとつわかってないのに。
 あまり話も弾まないまま時が過ぎ、店主が黙ってこぶ茶を置いて行ったのを
機に紅子は立ちあがった。「ご馳走様でした。そろそろ帰りませんか。」沢野も
「そうですね。今日はよかった」と自分に言い聞かせるように頷いて席を立った。
 店の外まで出て来た沢野は「有難うございました。僕は楽しかったですよ。も
っと速水さんのこと知りたくなりました。次の練習日にもここに来ましょう。と明
るく言った。「僕もう少しここにいますので。」
 紅子は言葉もなくただ深々とあたまを下げて歩きだした。
 今紅子の胸にある得体のしれないわだかまりは、どんどん大きく広がって
彼女をこの上もなく憂鬱にさせた。そして紅子は自分自身に一番腹を立てて
いた。
 少し傾いた陽の光が、葉桜の木の間から零れ落ちる舗道を゛紅子は唇をか
みしめながら、うつむいてのろのろと歩いた。

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コメント 7

ENO

たびたび、NICE を頂き…ほんとうに
感謝の気持ちでいっぱいです。
不束なスポーツブログですが・・・
春も、ヨロシクお願い候。
by ENO (2013-02-28 22:27) 

リンさん

考えさせられるお話ですね。
沢野さん、スマートで口説き上手。
深い思惑はないのでしょうが、要注意ですね(笑)

このお話は、これで完結ですか?
続きが読みたい気もするけど、このあとを勝手に色々想像するのも楽しいですね^^
by リンさん (2013-03-01 16:04) 

dan

リンさん
読んで下さって嬉しいけど、少し後悔もしています。
私の中でテーマが曖昧だったせいか消化不良の感
あり。でも実はこのもやもやっとしたのを書きたかったのも事実なんです。
いつか続きを考えてみたいけれど、今回は卑怯だげと
みなさんに想像してほしい気持ちです。
by dan (2013-03-01 22:53) 

NO NAME

三年前 紅子はどうして シルバーコーラスのサークルに参加したのだろう 3年もの間 サークルの空気に馴染めなかったのだろう 

胸にある得体のしれないわだかまりは、どんどん大きく広がって  彼女をこの上もなく憂鬱にさせた

その原因は 沢野に誘われた事よりも 誘われる紅子にすきがあるから そのすきは 

達郎は自分に関係のない話は嫌いなのだ。というより無口で静かな彼は、お喋 りの紅子に辟易していたと言うべきかもしれない。

だがどことなく気が合ってお 互いに絶対この人だと思って結婚した。そして今でも仲のいい夫婦だと思ってい
た。

と言った 鬱積が そうさせていることに気付いていない

沢野も家の中では いどころがなくて 鬱々としており 似たもの同志で傷口をなめ合いたかったのだろう

淡い恋を期待したのが悔やまれます
by NO NAME (2013-03-02 14:49) 

dan

紅子と沢野の心情をよく読み込んで下さっているのに
驚いています。
でもこんな二人で恋になるでしょうか。話的には案外
面白いかも。
いつも有難うございます。
by dan (2013-03-02 19:38) 

かよ湖

私も、紅子と沢野のこれからの恋に期待していました。
このズレが2章3章と進むにつれ、近づいて発展していくのかな、って。
ここで完結だとしたら、紅子は達郎の良さを再発見したという事でしょうか。
ある意味、1番リアリティのある終わり方だと思います。
実際には、なかなかドラマや小説のようにはいきませんからね。
でも、願うならば、気が変わったら続編もお願いしますね。
by かよ湖 (2013-03-11 01:11) 

dan

みなさんに続きは?と言われてうーん。何か
浮かんで来つつあります。私って例えフィクションと
いえども、道に外れたことは書きたくないという気持
が強過ぎて、でもそれでは面白くないとか.....。
ひとつ頑張ってみますか(笑~)
いつもいいコメント有難うございます。
by dan (2013-03-11 11:46) 

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