平成シニア物語  夕あかり [平成シニア物語]

 蝉しぐれの降りしきる庭に面した廊下の端に座って、考え込んでいるような
洸一の背中が見える。
 文はキッチンで夕食の支度をしながら「今日はどう?楽しかったですか。」と
大きな声で話しかけた。その声に洸一が振り返った。
 殆ど白く薄くなった頭髪、少しむくんだ艶のない顔、緩慢な動作。文は彼も
年とったなあ、とつい思ってしまった。そして八十だもの....と心の中で呟く。
「今日は歌歌ったんだよ。次から次へといっぱい歌った。皆楽しそうだったけど
私は疲れたよ。」洸一はひとり言のように呟いて少し笑った。
 今日は洸一が二カ月前から行き始めたデイサービスの日だった。最初は嫌
がっていたが、何度か行くうちに少し打ち解けたらしくて、この頃ではその日が
くると割合上機嫌で、迎えの車に乗った。
 洸一は二十年ほど前から糖尿病を患っていたが、最近少し症状が進んだ
ようで足も弱くなり、文も少し負担を感じるようになっていた。
様子を知った知人の勧めで介護の申請をして何とか受けることが出来るよう
になったところだった。
 おかげで文も長く続けて来たヨガ体操の教室にまた行けるようになり、少し
心の余裕も出てきた。
 それぞれ家庭を持った二人の娘が近くに住んで、何かというとすぐ助け舟を
出してくれるのが、文には心強くいつも感謝していた。
「ねえ、食事まで少し横になったらどうです」文は優しく手を貸して洸一を居間
のソファにつれてきた。
 二人で見るともなくテレビを見ているうちに、洸一は小さく寝息をたてている。
ディサービスはやっぱり気を使うから疲れるのだろうと、文はタオルケットを
そっとかけて、しげしげと彼の顔を覗き込んだ。
 そこには若かったころのきりっとした洸一の面影はなく、安心しきっている
幼子のようなあどけないおじいさんがいた。 
じっとその顔をみている文の脳裡に突然洸一と歩いてきた山あり谷ありの
激動の五十余年が甦ってきた。

 洸一は若い時、文に一言の相談もなく転職し、次にはサラリーマン生活を
捨て突然の自営業、果ては共同経営者に裏切られて倒産、今まで築いてき
たすべてのものを失った。
 洸一はその時五十歳を越えたところだった。文はうろたえた。でもすぐ立ち
上がった。洸一を励まし、再就職した彼と一緒に文もスーパのパートに出た。
裕福な家で大切に育てられた文が、大げさに言えば生れて初めて世間の
荒波に放り出された瞬間であった。
 自宅も手放し、一変した厳しい生活にも文は一言も洸一を責めることはな
かった。いやできなかったのだ。

 文は二十歳の頃勤めていた会社の先輩に恋をした。ハンサムで優しくて
仕事も出来た。彼もすぐ文の気持ちを受け入れてくれて、楽しい青春だった。
文は当然彼と結婚して幸せな家庭を作ることを夢見ていた。それなのに二年
が過ぎた頃、彼の一方的な言い分で、彼女は訳のわからぬまま失恋し、深く
傷つき、何も考えられず人生が終わってしまったような虚しい日々を送って
いた。
 そして半年、父母の薦めで洸一と見合いをし、数回逢っただけで結婚した。
大好きな彼との夢が破れた今、文にとって結婚相手は正直誰でもよかった。
 ただ若い文にとって結婚はこれからの人生を歩む唯一の手段としか思え
なかった。親の薦める相手なら何の責任も持たなくていいし丁度よかった。
 幸い洸一は美しい文を一目で気に入った。
実直で優しい彼は結婚しても文への想いを変わることなくもち続けていた。
 そんな彼の優しさにも文はなかなか心を開くことが出来なかった。彼女の
中にはいつまでも一人の人の面影が住み続けていたから。
 長い月日が流れた。子供も生れ温厚な洸一との暮らしの中でごく自然に
二人の間に夫婦としての絆が出来、文も洸一のことを空気のように感じる
ようになっていた。

 洸一が何もかもなくした時初めて文は、理不尽しも思える彼の行為に文句
一つ言うことが出来ない自分に納得し、自分をがんじがらめにしている者の
正体に気付いた。
洸一の人格を全く無視して、ただ自分の身勝手だけで結婚してしまったことが
罪悪のように思えて、無意識のうちに滓のようなものとなって文の心の奥底
に沈みこんでしまっていたのかもしれない。
 文は今こそこれまでの自分の思いあがった心の狭さを、洸一に詫びるべき時
だと本能的に思った。そしてこれまでの自分を恥じ深く深く反省した。

 文は必死で働き洸一を助けることでようやく素直に自分をみつめることが
できるようになっていった。長い間もやもやと胸の奥底に引っかかっていたも
のがやっと、少しづづ融けていくような気がした。
 しかしその気持ちを言葉で洸一に伝えることはどうしても出来なかった。

 結婚以来抱えていた文の心のわだかまり、いい加減さに洸一は気付いていた
た゜ろうか。夫婦だもの五十年も一緒にいれば、多分何度かそぐわないものを
感じたかもしれない。洸一にしては無鉄砲だと思われた、若い日の行状だって
今思えは文に原因があったのかもしれないのだ。
 
 あれから二十年余り今文は心の底から洸一を想い自分の気持をせいいっぱい
そそいできた。年を取るにつれて出て来た彼の短気や我儘も笑って受け入れる
ことが出来た。若かった時の身勝手な自分を許してほしいと常に思った。

 文は長い追憶から覚めてわれにかえるとキッチンに立った。
 いつの間にかほの暗くなった庭に、茜色の夕あかりがかすかに揺れていた。
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リンさん

深い話ですね。考えさせられます。
愛し合って結婚しても別れてしまう夫婦もいます。
逆に、文さんたちのような夫婦の方が多いのかもしれませんね。
そんなに反省しなくても、きっと洸一さんは幸せだったと思います。
素敵なお話、ありがとうございました^^
by リンさん (2014-08-03 15:57) 

dan

いつも有難うございます。
私たちの世代の結婚はにはこういうのが一般的
だったと思います。
もし初恋が叶わず、まあいいやとその気持ちを引きずったまま結婚したら、こんなこともあるかなあと想像してみました。

by dan (2014-08-04 14:02) 

みかん

長い月日をともに過ごすことによって生まれる
絆なんでしょうね^^
結婚して17年目ですがまだ空気のような存在には
なってないと思います…^^;

by みかん (2014-08-10 10:23) 

dan

若いみかんさんには、こういう結婚そのものが
理解できないかも....
一緒にいる月日が長ければ、そこに愛が生まれる
と信じたいですね。
結婚十七年、若くていいですね。

有難うございました。
by dan (2014-08-10 20:20) 

あかね

danさん、台風はいかがでしたか?
danさんのお住まいの近くで相当なに猛威をふるっていたようで、気になっていました。

小説のほうは。
やっぱり今どきの若い男女と、八十歳になろうとしている昭和そのものの男女だと、根本的に考え方もちがうでしょうね。
今どきだったらこの夫婦、即離婚かも。

乗り越えてともに歩んできた夫婦の姿をじっくりと書く。そんなのもいいですね。

by あかね (2014-08-16 15:26) 

dan

有難うございます。真っ直ぐ進路に入っていた
台風は何時ものようにそれて、大したことありませんでした。ただその前から続いた大雨で、帰省中の息子は
電車の運休で、他市で一泊、帰りも一日早く帰京しました。娘も帰省していて、忙しいけどちょっと嬉しい夏季休暇でした。述べ十日ほどほったらかしていて久し振りにブログみました。

 私たちの世代は夫婦もこんなものだろうと、書いて
みました。いつも有難うございます。
by dan (2014-08-17 11:15) 

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