平成シニア物語  夢の通い路  1 [平成シニア物語]


 鈴虫の声を聞いたような気がして、由紀子は庭に出た。
十月も半ばの里の庭は、少し風が冷たく感じられた。垣根に白い秋明菊の花が
咲いている。
 見上げると南の空に上弦の月があって、その深い黄色が暮れたばかりの藍色
の空に解け入るように美しい。
 由紀子は思わず大声で夫の信之を呼んだ。「鈴虫いたの?」あわてるふうもなく
信之が出て来た。「鈴虫よりあの月見て、ああ本当に素敵でしょう。こんな空を見
るとここにきてよかったと....思うのよね。」由紀子が感慨深げに言う。信之は空を
見上げて、そして由紀子の顔をみて満足そうにうなづいた。
 二人がこの里山の古い家に移り住んで、もうすぐ一年になる。
 ここから車で二時間程の市内にある家には、時々風を入れに帰る。この街は
程良く都会で気候も温暖で災害も少ない。お城も温泉もあって二人は気に入って
いたし満足していた。ここで子供たちを育て送り出した。
 信之が定年を迎えた二年ほど前、彼はずっと考えていた思いを口にした。
田舎に住みたい、庭に木を植えて花を育て、好きな絵を描き、音楽を聴いて自分
の思うままに、好きなように自由な余生を送りたい.....と。
 由紀子が信之と関わって四十年余が過ぎた。彼の考えていることはすべてわか
っているつもりで、これからは信之の思うようにしたらいいと思っていた。
でも由紀子は庭にも花にも興味がない。一時間に一回しかパスの来ないところ。
デパートもスーパーもない所に住むことなど考えるのも嫌だった。だからこの話を
聞いた時、「あなたの好きなようにしたらいいよ。でも私は嫌! 」と由紀子は即座に
つっぱねた。この時、この話はあくまで信之の理想であって、彼が本気で実現する
ことを考えているなど思ってもみなかった。
 信之もこのことに関してその後なにも言わなかった。
 時々車で走っているときなど、山陰にポツンと建っている人気のない田舎家など
見つけると、信之は「あの家いいねえ、売ってくれないかなあ、いや貸してくれない
かなあ」などと言う。そんな時由紀子は聞こえぬふりをして話題をそらす。
 信之は田舎へ隠遁などしなくても、この家には小さいながら庭もあるし、盆栽も
造るし花が咲いていない時はない。剪定も自分流に好きにしている。日曜大工や
料理にも興味をもち、まったく時間を持て余すことなど決してなかった。
 その上趣味を通して、それぞれの仲間もいて、これらの人間関係は、彼の財産
でもあると由紀子はいつも羨ましいと思っていた。
 去年の夏、出かけていた信之が息せき切って帰るなり「ちょっと話聞いて。」と
由紀子を呼んだ。「芳野君のおじさんが家を貸してもいいと言っている。そこを是
非借りたいのだけどどうだろう。」と興奮して叫んだ。由紀子は「ああ、もうこれは
自分では決めているな。私が何といったところで....」と半ば呆れながらも。こんな
に子供のように喜んでいる信之の顔を見ていると否とは言えなかった。「そう何処
なの、余り遠い所は嫌ね」と落ち着いた口調で言った。「ああ佐山だ。車で二時間
くらいかなあ。とにかく行ってみたい。」県内でも過疎化の進んでいるところで由紀
子もテレビで見たことがあった。
 善は急げ!!信之はナビに行く先をセットして、翌日二人は佐山に向かった。
朝からの厳しい太陽の光、日中はもっと暑いた゜ろうと由紀子は気がめいった。
 街をはずれてぐんぐん走っても、こんな田舎にもと思う程立派な道路が続いて
いて、ポツリとバス停もある。遥か目の下に見えるダム湖の水がキラキラと夏の
陽に輝いて、山の濃い緑が美しい。由紀子はふーんちょっといいじゃないと、い
つかいい気分になって来た自分がおかしかった。

 
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