夢の通い路  2 [平成シニア物語]


 二人で車に乗っている時は、由紀子が話しかけない限り信之から声をかける
ことは滅多になかった。でも今日は違った。さっきまで彼が喋り続けていた。
「芳野君の叔父さんは八十五歳で、この春まで元気で百姓をしていたらしいんだ。
子供たちは皆出て行って、後を継ぐ者などいない。もう年だからと子供たちに仕事
を止めて一緒に住もう、と言われても、ここが一番いいと頑張っていたのに、畑で
転んで腰を骨折してしまった。医者に仕事はもう無理だと言われて、さすがの叔父
さんも、退院したら子供の所へ行くと決めたそうだ。その話を聞いて芳野君は、{ど
こか田舎に空家はないか、余生はそこで過ごしたい}と口癖のように言っていた僕
のことを思い出したのだそうだ。相談を持ちかけた芳野君に、叔父さんは誰も住ま
ずに廃屋になってしまうより、住んでくれる人がいればそれだけでいい。お前の友
だちなら安心だ、と言ってくれたそうだよ。」
 由紀子はあきれた。自分の言いたいことがあったら、この人はこんなに一人で
喋るんだ。しかもその一言一言に、弾むような信之の心情が見てとれて、今日この
家を見たら、彼はそこに住むことになるのだろう.....と由紀子は思った。
 大きな道路から少し山道に入って、かなり走った頃田圃が続く中に農家もポツリ
ポツリとあるし、そこで働く人影もみえてきた。「もう佐山でしょう。さっき道路標識に
あったような気がするよ」「うんこの辺りだと思う。ナビが目的地についたと言って
いるからちょつと聞いてみよう。」
 低い山裾に沿って松か杉のような大木の林があって、その脇を小川がさらさらと
ながれている。真上にある太陽の光が、想像していたより遥かにやさしい。
 信之は近くの農家の前に車を止めた。表で作業をしていた女性が立ちあがった
「こんにちは、ちょっとお尋ねします。芳野要三さんのお宅はどちらでしょう。」信之
が声をかける。「ああ」女性はにこにこと「こんにちは、芳野さんとこならこの隣だけ
ど、今は誰もおりませんよ。」と大きな声で言った。「有難うございます。実は」この
いかにも好人物らしい女性に信之はここに来た訳を話した。「そうですか、おじいち
ゃんも、本当に元気だったのに残念です。でもよかったあ!! もう隣に人が来るなど
無いと思っていたので嬉しいです。私村木順子、主人は登、二人でぼつぼつ農業
やっています。そうですか嬉しいなあ。」順子は本当に嬉しそうに何度も頭を下げた
「まだここに来ると決めている訳ではないのですよ。」由紀子は何度も口を出しそう
になっては止めた。
 この辺りの景色といい、のんびりさといい、穏やかさといい、ましてこの明るい隣
人の出現、信之に、ここに住まないという理由は何ひとつないように思え。
 二人は順子に礼を言って芳野の家に入った。雨戸の閉められた家の中はカビ臭
い匂いがした。二人でとにかく南に面している廊下の雨戸を開けた。真夏の太陽の
光が飛び込んできた。北側の窓も開け放った。風がさっと通り抜けふたりは思わず
顔を見合わせて笑った。
 廊下に面して八畳の部屋が二つ、大きな床の間の真ん中に鯛を釣った大黒様の
置物がでんと置いてある。隣の六畳の部屋の壁にカレンダー、時計、卓袱台。テレ
ビ、小さい引き出し箪笥。この部屋には芳野さん達の生活の匂いがあった。ここは
茶の間だろう。続いてキッチンがあり、流し台の後ろの小窓を開けると、直ぐに裏山
が見えて、降るような蝉しぐれが飛び込んできた。
 その向かいに広い納戸があり大きな箪笥や布団戸棚が、整然と並んでいた。
 ここに住んでいた人の、きちんとした、誠実な人柄が偲ばれるような家の中の様
子だった。
 二人は滴るような緑の林が近くに見える廊下で、お弁当を食べた。おにぎりと、
卵焼きと、茄子と胡瓜の浅漬けだけのシンプルな昼食が、ここにはよく似合って、
由紀子はふっと「幸せだなあ」と思ってしまって信之の顔を見た。満足気な彼は口
いっぱいに頬張ったおにぎりを、ゆっくりと噛みしめている。由紀子は黙ってポット
から冷たいお茶をコップ一杯ついで渡す。穏やかな真夏の昼下がり、信之の満足
そうな顔が印象的だった。
 帰り際に順子が車に近寄ってきて、「是非来て下さいね。楽しみに待っています」
と大きな声で言って手を振ってくれた。信之と由紀子も「有難うございました。」と丁
寧に挨拶して、この地を後にした。
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リンさん

ちょっとご無沙汰している間に、新しいストーリーが始まっていたんですね。
平成シニア物語、楽しみです。
私もバスが1時間に1本の田舎に住んでいますが、やはり男の人は、晩年土を触って暮らしたいと思うのかもしれませんね。
うちのお隣のご主人もそう言って引っ越してきたそうです。
嫌々ながらも楽しみを見つける奥様も素敵ですね。
続き楽しみにしています。
by リンさん (2012-10-30 19:07) 

dan

嬉しい。こんなシニアの話などリンさん読んで
くれないのかと落ち込んでいました。
元気出ました。頑張ります。でも正直な厳しい
感想も嬉しいのですよ。有難うございます。

by dan (2012-10-30 19:14) 

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