夢の通い路  終章 [平成シニア物語]


 信之の決断は早かった。由紀子を説得して数日後には、芳野君と相談して家賃を
決め、あの家を借りることにした。
 叔父さんは、自分たちの小物は処分し、大きな家具などは納戸にまとめるので、後
の部屋は自由に使ってもいいと、言っていると芳野君から伝言があった。二階には六
畳間が三つもあって、もし子供たちが遊びに来ても充分だった。
 信之は「由紀子がどうしても嫌なら僕一人で行くけど、一緒に来てくれたら嬉しいな
あ」と照れくさそうに笑った。
 由紀子は今の今までここに残りたいと考えていた。田舎の生活は嫌だった。でも信
之のこの顔を見て、この年になって二人が離れて暮らすなんて、やっぱり不自然だ、
それにこの家に永住するというのではないのだから、ここは信之の思うようにしょう。
 由紀子は自分が長年やっている趣味の会に出る時や、市内でどうしても出たい催
し物がある時は、信之に車で送迎してもらう約束を取り付けた。
 準備といっても、大引っ越しをする訳でもないので、取り敢えず当座のものだけで
二人は秋たけなわの佐山にやって来た。
 隣家の人は勿論、組内の人たちも素朴で気のいい人ばかりで、二人を大歓迎して
くれたので、この頃では由紀子の方がここの生活が気にいっていた。
 四季折々の新鮮で美味しい野菜や果物、移り変わる自然の確かさとその美しさ。
ここに来てすぐに、やって来た冬も、思っていた程寒くはなくて、時折ちらつく小雪や
二、三回積もって、すぐ消えた雪景色は、遠くの山の峰に白く残って輝く雪と調和して
本当に清々しかった。由紀子は庭に立ち尽くして飽かず眺めた。
街にいるとき、あれほど苦心して作っていた短歌も、数だけは苦労することなく次々
詠めた。
 信之は自分で望んだだけあって、生き生きと毎日を思うままに過ごしていた。芳野
君がグループの仲間四人と一度やって来た以外は、訪ねて来る人もなかったが、彼
は自分の趣味に没頭し、由紀子と二人の生活を満喫しているようだった。
 月に一度くらいは二人で街に戻って映画を見たり、食事をしたり、わが家で二、三日
泊まって帰ることもあった。


 この頃由紀子は一人の時などに、若い日のこと遠い昔のことをふと思いだすことが
よくあった。
 結婚するまでの三年余り、離れて暮らしていた、信之と由紀子は、月に一回くらい
しか逢うこともなく、そうだお互い結構切ない想いをしたものだった。
 二人で一緒にいるだけでいい、と何度思ったことだろう。でも結婚してしまうと、そん
な気持ちなどすっかり忘れて、生活に、子育てに忙しい日々の中で、早くも四十年の
月日が流れた。そしてまた二人だけの生活にもどった。今度はゆっくりとのんびりと。
 信之はどうなんだろう。きっと彼も同じなんだろうなあ。今更昔の話を持ち出しても
笑われるだけだよね。
 今まで幸せだった二人。少なくとも由紀子は信之と結婚したことに満足していた。
気が強くて、女性らしいところなどまるてない由紀子を、大切にしてくれた。誠実に接
してくれた。結婚するときに交わした約束もしっかり守ってくれた。
 一度信之の目を見て有難うと言いたい......由紀子は心の底からそう思った。


 「ああ、やっぱり鈴虫だよ。鳴いているよ」信之の小さい声に由紀子は我に返った。
「本当きれいな声ね。」二人はしばらく耳を澄ましていた。
「風が冷たくなったね。風邪をひくよ、中に入ろう」信之は言いながら由紀子の肩にそ
っと手を置いた。暖かいその手の温もりが由紀子にすっと伝わって来た。
 由紀子の胸に突然熱い感情が甦って来た。そしてずっと昔にもこんな夜があった
ような気がした。
 信之とここにきてよかった。
 これからの人生を二人で素敵に全うしたいと切に思った。
 由紀子は、かすかな月明かりに見える信之の顔を、やさしい想いで見つめた。 

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リンさん

鈴虫で始まって鈴虫で終わりましたね。
文学的で素敵でした。
こういうのって理想の夫婦ですね。
きっとdanさんが仲良し夫婦だったから書けるお話なんですね。
by リンさん (2012-11-02 18:20) 

dan

嬉しいコメントです。こういう生活を望んでいた夫への
メッセージのつもりで書きました。
有難うございました。
by dan (2012-11-02 18:40) 

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