平成シニア物語 早春賦  1 [平成シニア物語]

デイサービスの車が見えなくなると、香織はふーとひとつ大きな息をはいた。
 立春を過ぎた空の色は青く透き通り、風は少し冷たいけれど、すぐ近くの
雑木林にそそぐ陽の光は、心なしか暖かくなった感じがする。
 夫の宏人は脳梗塞を患ってから、日常生活に支障はなかったが、何でも
一人でテキパキという訳にはいかなくなった。その上八十近くなって物忘れ
もひどくなった。あれほど聡明で、理論的なものの考え方をする方だった彼
のこんな様子に、初め香織は心を痛めていた。しかし本を読んだり、人の
話を聞いたりして、このくらいは年相応だと分かってからは、素直に現状を
受け入れ出来る限り、宏人に寄り添った。
 そしてやっと昨年の秋「絶対に嫌だ」と言っていた宏人がデイサービスに
行ってくれるようになり、香織にも少し心身ともにゆとりが出来た。
 今日は午後から少し遠くのスーパーまで足を延ばした。買い物を済ませ
お気に入りの小さなカフェで、一人コーヒーを飲む。これがささやかな香織
の楽しみでもあった。
 家に帰ると宏人が帰る時間まであと数時間はあった。
香織はリビングのソファにこしを下ろした。少し西に傾いた陽射しが窓越しに
入り込んでくる。ふと棚に目をやった香織は、そこに飾ってある写真を手に
とった。昨年子供たちが香織と宏人の金婚式を祝って撮ってくれたものだ。
 娘夫婦と孫二人が香織と宏人の両側に寄り添って、みんな楽しそうに笑っ
ている。香織は改めて宏人の嬉しそうな顔に見入った。
 私はこの人と五十年も一緒に生きて来たのだ。この満足そうな彼の顔。
私はどうだったろう。と香織は思った。
 その時突然、胸の奥底の方が波立ち、熱いものがこみあげて来た。
香織は自分の感情に気づきたくなくて、急いで目をつぶった。
 しかしその眼裏にあの人は鮮やかに現れた。
浅黒い顔、笑っているようで決して笑ってない澄んだ目。固く結んだ口元、広
い額に少しかかった髪の毛。香織にはそのどれもが忘れられない、彼女の
一番好きなあの人の表情だった。
 香織は動転した。もうあの人のことは、とうに忘れていたはずだった。実際
ここ何十年も思いだしたことはなかった。


 遠い昔香織はあの人に恋をした。物静かで大人しい彼女のどこに、あれほ
どのエネルギーが潜んでいたのか。ただ一途にあの人が好きだった。そして
あの人も香織の想いに応えてくれた。幸せになるはずだった。
 しかし二人の恋は、一年の後、あの人が突然別の女性と結婚すると言った
時に終わった。何がどうなったのか、その時の香織には考える力もなかった。
 彼女はその悲しみを一人で抱え込み、一人で耐えた。決してあの人をなじる
ことはしなかった。
 この理不尽な恋の顛末を知って香織の親友の葉子は、黙っていることはな
いとあの人の不実を責め、本当に彼のことが好きなら、もう一回話し合いをす
るように説得したが、香織は悲しい目で首を横に振った。
 半年の後香織は自分の足でしっかりと立ちあがった。そして親に勧められる
ままに宏人と見合いをした。何もかもを、大きな心で包み込んでくれるような彼
の優しい目が、今の香織には救いであった。
 離れて住んでいた二人は結婚までに三度会っただけだった。
 葉子は香織と最後にあった時、この結婚についてとても理解することが出来
ない、まして祝福なんて....と強い口調で責めたが、香織が低い声で言った一言
に絶句した。「私、結婚相手は誰でもよかったの」
 結婚式の日の美しい香織の白無垢姿を、そして優しくて悲しそうな目を葉子
は心が凍る思いで見つめた。
 それから一カ月ほどして葉子は香織の手紙を受け取った。そこには今度の
彼の宿直の時、是非泊まりがけで遊びに来てほしい。そして私の新しい家庭を
見て欲しいと書いてあった。
 葉子は今までの胸のつかえが下りたような気持ちになり、二つ返事でОKした。
 香織の新居は新しいアパートで、窓にかかったピンクのカーテンとテーブルに
飾られた、赤と黄色のチューリップの花がいかにも新婚らしくて微笑ましかった。
 二人は街を歩いたり、お茶を飲んだり、夜も寝ないで語り明かした。
 葉子は香織が思っていたよりずっと明るくて、若奥様ぶりが板についているの
を目の当たりにしてほっと胸をなでおろした。
 次の日の朝、二人で朝食の準備をしている時、「私このお味噌汁、あの人の
為に作っているのなら、どんなに好いだろう。」と香織が小さい声で呟くのを聞い
た葉子は耳を疑った。そして大粒の涙をぽろぽろこぼしている香織の顔をただ
呆然と見詰めた。どうしてもかける言葉はなかった。
 それでも葉子を駅まで送ってくれた香織は、朝のことなど忘れたように、にこに
こと又きてねと手を振った。
 その後も葉子はずっとあの日の香織の言葉を忘れることが出来ずに心を痛め
ていた。
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