平成シニア物語  忍ぶ草  終章 [平成シニア物語]

 その年の秋、紗江の水墨画が県展で最高の知事賞を取った。
植野先生も仲間も大喜びで、紗江のために祝賀会を開いてくれた。
 当然一郎も駆けつけた。
皆から贈られた沢山の花束と拍手に囲まれて、紗江は水墨画に手を染めて
からの、十五年の月日を感慨深く思い浮かべた。「紗江さんおめでとう。とう
とうやりましたね。」と一郎は紗江の肩にそっと手を置いた。
 紗江はしばらく動悸がおさまらなかった。どんな花より一郎の手のぬくもり
が嬉しかった。
 その夜一郎が星を見に行きましょうと紗江を誘った。タクシーで三十分ほど
走ったろうか。郊外の造成されたばかりの住宅団地の奥の丘の上。まだ家は
建っていない。地上の灯りは所々に立つ街灯だけ。
 濃紺の空に月が煌々あり、無数の星が天井を埋め尽くして輝いている。
紗江は「まあきれい」と言ったきりあまりの美しさに後は声にならなかった。
「三十分したら迎えに来て下さい。」一郎はそう言ってタクシーを帰した。
 「どうです、紗江さんきれいでしょう。僕は貴女へのお祝いはこの星空が一
番似合うと思いました。そしてきっと気に入ってくれるだろうと。」
 「有難うございます、嬉しくて.....」紗江の声が途切れた。つい涙があふれた。
 二人はコンクリートのベンチに腰掛けて、降るような星空を黙って仰いだ。
時々通り過ぎる風の音以外、すべてが静寂の中にあった。


 県展の会期が終り、紗江の身辺も少し落ち着いた頃、彼女は一つの決断を
した。
 もう西尾一郎には会わない。潔く先生の前から姿を消そう。誰のためでもな
い自分のために。これ以上彼の近くにいることに紗江は耐えられなかった。
 生れて初めて知った恋、それも相手は妻子ある一回りも年上の男性。
彼の気持ちなぞ全然分からないし、知りたくもなかった。ただ紗江は自分の
恋を信じたかった。その想いを大切に大切にしたかった。しかし、そのために
人の道を踏み外すようなことは出来なかった。
 どんなに辛くても切なくても、これが自分の取るべき一番いい道だと思った。
 紗江は会社を辞めた。誰にも何も言わずに下宿を引き払い姿を消した。
 驚いた一郎は八方手を尽くして紗江を探したが、身寄りのない彼女のことを
知る人とてもなく、見つけ出すことは出来なかった。

 それからの紗江は大都会の片隅で、やっと見つけた小さな印刷会社に就職
した。もう若くはない彼女にとって初めての大都会での生活は、決して平坦な
ものではなかった。でもどんな時でも紗江はくじけなかった。
新しい暮らしに慣れてくると、都会でしか見られない絵画を見に美術館に足を
運び、音楽会にも出かけた。今の自分の生活を少しでも潤いのあるものにした
いと、常に前向きだった。気ごころの通じ合う何人かの友も出来た。
 自分の部屋の飾棚には一郎と二人で撮った写真を飾り、遠くで想う一郎へ
の気持ちが変わることはなかった。

 そして十五年の歳月が流れた。定年退職してこの街に戻った紗江は、真っ先
に一郎の家を訪ねた。
 もう昔のように激しい彼への想いはなかったが、小さな埋み火は紗江の胸の
奥にひっそりと燃えつづけていた。
 そしてやっぱり一郎には会いたかった。
 突然の訪問に絹子は驚きを隠さなかったる「紗江さん、紗江さんなのね....」
髪は白くなっていたが昔のままの優しい表情で紗江の肩を抱いた。「あなたは
どうして.....」後は涙で声にならなかった。
「先生は?」問いかけようとす紗江の言葉を遮って絹子は彼女を客間に通した。
「貴女にお渡ししたいものがあります。」紗江は胸が張り裂けそうな胸騒ぎを覚
えた。
 絹子は文箱から和紙の封書を取り出すと紗江の前に置いた。「主人から紗江
さんへ」くぐもった低い声でそう言った。
 絹子の話によると一郎は二年前、長く患うこともなく亡くなったのだという。
 絹子は遺品の整理をしていてこの封書を見つけた。行方の知れない紗江へ
の手紙、一体何が書いてあるのか、読みたい衝動にかられながらも、絹子は
辛うじて平常心を取り戻した。そして最愛の夫の願いを叶えてやりたいと思った。
いつか必ず紗江にこの封書を渡す日が来ると信じて待った。
 思ってもみなかった一郎の死だった。紗江は激しく動揺した。そこに居るのが
辛かった。絹子の顔を見るのが辛かった。
 どこをどのように歩いてわが家に帰ったのか。紗江はペットに倒れこむと声を
上げて泣いた。一晩中泣いて泣きつかれた夜明けに一郎の封書ゅ開けた。

  紗江さん 今どこにいるのて゜すか。貴女は僕のために、姿を消して
  しまわれたのですね。
  もし貴女がそうしなかったら、僕は消えることが出来たでしょうか。
  僕は絹子を 最良の妻だと思っています。
  それでも紗江さん貴女をを愛しく想う気持ちを抑えることが出来なかった。
  そして男らしい決断をすることも。どうか自分勝手な僕を許して下さい。
  星の降るあの丘でもう一度だけ会いたかった。       一郎

 最後に十五年前紗江が家を出た日の日付が書かれていた。
 
 紗江は一郎の手紙を胸に抱きしめて又泣いた。
「先生どうして待っていて下さらなかったのですか。」あの街を出た日の体が
引きちぎられるような悲しさと、胸が張り裂けそうな切なさがゆっくりと紗江の
脳裡に甦って来た。

 紗江はあの思い出の丘に近い団地に家を建てた。庭には花が咲く木をいっ
ぱい植えた。
そして生涯にたった一度恋した人との思い出を大切にしたいと、再び絵筆を
とった。一郎に会わせてくれた水墨画、生ある限り誠実に力強く生きよう。
そしていつか大好きな一郎に胸を張って会えるように。
 軒端に吊るした忍ぶ草の、風鈴が微かに鳴ってまた季節がめぐって行く。



 
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ENO

ご訪問、頂き…ありがとうございます。
野球も、サッカーも熱が入ります。
エノ爺も、チョッと熱が出たようじゃ!
リフレッシュしなければ・・・
やっぱり、安らぎの音楽がよいの〜。
それでは、またお邪魔します・・・
by ENO (2013-06-14 22:24) 

リンさん

大人の純愛ですね。
忍ぶ草というタイトルにぴったりの素敵な話でした。
最後の一行、風鈴の音が聞こえてくるようでした。
手紙を見つけた奥さんの気持ちは、穏やかではなかったでしょうね。
だけど修羅場にならなくて本当によかった。
by リンさん (2013-06-15 10:27) 

あかね

この物語は長編の一部なのでしょうか?
だとしましたら、はじまりはどこからですか~?

どれから読ませていただければいいのか、教えて下さいませ。
最初からゆっくり読ませていただきたいので、よろしくお願いします(^^
by あかね (2013-06-15 15:33) 

dan

リンさん
またまた夢物語になってしまいました。懲りずに
読んでコメントして下さってうれしいです。
そのうちリンさんをギクッとさせるような、修羅場の
ある大人の小説書きたいと思っています・
by dan (2013-06-15 22:39) 

dan

あかねさん
ご訪問有難うございます。
これは長編ではありません。前後編の終章です。
このページ左上の「最新記事一覧」に出ていますので、どれからでも読んで、批評して下されば嬉しいです
小説などとおこがましいのですが、よろしくお願い
いたします。
by dan (2013-06-15 22:51) 

ENO

コメントありがとうございます。
香川は、ファン投票による「マン・オブ・ザ・マッチ」(最優秀選手)に輝きました。
敗れたチームからの選出は今大会初だそうです。
そして、本人は惜敗に「すごくもったいない」と
悔しさを露にし、天を仰いだそうじゃ。
メキシコ戦でも、ゴールを目指す・・・
それでは、またお邪魔します。
by ENO (2013-06-20 19:36) 

かよ湖

1章から紗江に自分を重ねて読んでいました。
星空に誘う一郎はロマンティックでいいですね。でも、それが自分の旦那さんだったらイヤです。
自分の気持ちを伏せて過ごす15年。danさんの物語には、長い時間の中に刹那の大切さも感じられます。
いつも素敵な物語をありがとうございます。

danさんは、心情を情景に描写することがお上手なので、1度公募にもチャレンジしてみてはいかがですか?
by かよ湖 (2013-06-23 16:57) 

dan

嬉しいコメント有難うございます。
一郎が旦那様だったら嫌だというかよ湖さんは、もっと
はっきりと態度で示して欲しいタイプですね。
女性はそういう人の方が多いのでしょうか。
かよ湖さんに読んでいただけると本当に元気が出ます

公募にチャレンジ.....頑張ってみようかなあ。

by dan (2013-06-23 19:30) 

ENO

追記:残念な結果でしたね。
3連敗は痛いの〜・・・せめて、
引き分けぐらいはね!…勝ち点1は
付きますから。…日本よりはランキングは
3カ国とも上でしたからね…
ザックも腕試しと、言ってました・・・
来年のW杯に向けてレベルアップじゃ。これからですよ…
でも、マスコミに叩かれるのはチョッとね!?
それでは、またお邪魔します。
by ENO (2013-06-23 20:00) 

左見右見

danさんの書かれるフレーズ

「ざわめく」 

女の人の性の感情が凝縮されていて好きです

恋は 独り身のものですね 

生倫 という言葉を作ってしまいこみます




by 左見右見 (2013-07-04 13:27) 

dan

いつも読んで下さって有難うございます。
恋愛は色々な形がありますが、やっぱり成就
するのがいいですね。
私の書くのはあくまで想像ですから....
一度どきっとするようなのを書きたいと思っています。
by dan (2013-07-04 20:40) 

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