平成シニア物語  忍ぶ草  1 [平成シニア物語]


 若葉が薫り穏やかな陽の光と風は、時折もう夏の到来が近いことを思わ
せる。紗江は遥かな山の峰をながめながら、両手を上げて深呼吸をする。
 定年退職をしてここに落ち着いてからは午後のひととき家から歩いて十
五分程の、この高台に来るのが彼女の日課になっていた。
 造成された住宅団地を通りぬけて、一番高いところまで。遥かに遠く海も
見える。
 ここに立つと紗江が人生で一番輝いていた日々の思い出が鮮やかに甦
って来て心が優しくなるのだ。
 あまり人の影もなく、時に鳥の鳴き声がきこえてくるだけ。紗江は体操を
したりその辺を歩いたり、三十分程をここで過ごす。
 わが家に戻ると、お気に入りのコーヒーをたて、リビングのソファでゆっく
りと自分だけの静かな時間を楽しむ。


 紗江はずっと若い時、義理に縛られて不本意な結婚をした。そして三カ月
後、夫が出勤した後荷物をまとめて家を出た。夫に不満があるわけではな
く結婚そのものを望んではいなかった。
 当然のことながら親兄弟から逃れるように、見知らぬこの街にやってきて
商事会社にタイピストとして就職し自活の道を選んだ。
 頭がよくて明るくて仕事も良く出来た紗江だったが、同僚たちはどことなく
変わり者という印象をもっていた。
 紗江はそんなことにはお構いなく、自分のやりたいように生き生きと一人
であることを楽しんでいた。
 そんな時紗江がやっている趣味の水墨画の会が、展覧会をひらくことに
なった。会員たちがそれぞれ出品する絵を持ち寄ってわいわいやっている
時、主宰の植野先生が、一人の男性と教室へはいって来た。
「みなさん紹介します。ご存じの人も多いと思いますが西尾一郎先生です。
僕の高校以来の親友です。今日は皆さんの作品選びに助言を頂けたらと
お願いしました。遠慮なく相談してみて下さい。」
 西尾一郎は大学教授だが、その多才なことは皆のしるところで、水墨画
や書道は個展を開くほどの腕前だった。背が高く細身の上品な男性だった。
「植野君に頼まれる程の腕前ではないのですが、少しでも皆さんの手助け
が出来ればとやってきました。」
 西尾先生は気さくに皆の作品を見て回って、それぞれが出品する絵を
選ぶための助言をして下さった。
 その日の帰り、紗江は偶然電車で一緒になり会釈しただけの一郎が、同
じ駅で電車を降りた時には本当に驚いた。
「先生はこの辺りにお住まいなのですか。」「ええずっとここに住んでいます」
「私はつい最近越して来たところなので。水沢紗江と言います。植野先生に
はもう五年以上も教わっているのですがあまり上達しません。」と小さい声
で言った。「ああ貴女の絵憶えていますよ。「睡蓮」ともうひとつ「山荘の秋」
でしたね。なかなか良く描けていましたよ。」一郎はさらりと言った。
 紗江は感激した。今夜は十五、六人もいて沢山の絵があったのに数時間
で先生が自分の絵のことを、憶えていて下さったなんて.....」並んで自宅へ
の道を歩きながら、紗江はこの上なく幸せな気持ちになった。
 この夜から紗江は一郎に心魅かれるものを感じるようになった。そんな
自分に一番驚いているのは紗江自身だった。もともと男性には全然関心が
なかった。だから三十半ばの年になっても結婚しなかったし、勿論恋もした
ことはなかった。だから一回りも年上の一郎に対する感情も、恋ではないと
自分は思っていた。
 その後も時々一郎は植野の教室を覗くようになり、時には指導してくれる
こともあった。紗江は一郎が来た時はじぶんでも可笑しいほど張り切って、
懸命に絵を描き、彼の助言はひとことも聞き洩らすまいとつい力が入った。
 帰りはよく一緒に電車で帰った。一郎は妻と二人の子供の話もして、家も
近いことだしいつでも遊びにいらっしゃいと何度も誘ってくれた。紗江は嬉し
かったが、その言葉に甘えることはできなかった。
 紗江はその間もせっせと一郎の著書を読み、講演があれば出向き、書や
水墨画の個展には必ず出かけた。紗江の一郎への思いは募るばかりで、
時が流れて行った。
 ある年のクリスマスイブに一郎は一人よりは楽しいでしょう、といつになく
強引に紗江を誘った。紗江も思い切って西尾家を訪ねることにした。
 長男はもう家を出ていたが、娘の都と美しくて気品のある一郎の妻絹子
は笑顔いっぱいで「貴女のことはいつも主人から聞いているの。物静かだ
けどあの人は一本筋が通っているって。水墨画もお上手だといつもそう言
って褒めています。」言いながら初対面の紗江を大歓迎してくれた。 
 一人が良い、それで満足だと思い続けていた紗江はこの夜、初めて人と
一緒にいることの暖かさと、心地よさを知った。
 賑やかに食事をしたり、音楽を聞いたり、先生の絵を見たり、本当に楽し
い夢のような時間だった。
「紗江さん、こんなに近いのだからまた来て下さいね。主人が人を家に招く
なんて滅多にないことなのよ。きっと貴女のこと気に入っているのだと思う
わ。」後片付を手伝ってキッチンで洗い物をしている時、絹子が楽しそうに
紗江に囁いた。紗江は胸の辺りが少しざわめいたが、心からそう言って
くれている様子の絹子の気持ちを、本当に素直に嬉しく思った。
 こうして紗江と一郎一家の付き合いは続いた。絹子も紗江のことを気に
入って、買い物に誘ってくれたり、一郎の個展にも連れ立って出かけた。
 その間紗江の水墨画はめきめき上達して、県展に初入選した。
 その頃には一郎と紗江はよく喫茶店に行き、話題の豊富な一郎の話を
聞きながら、ただ一郎と一緒にいられるだけで紗江は幸せだった。一郎に
特別の感情はなく、紗江に対して気心の通じ合う、年下の可愛い妹くらい
の気持ちではなかったろうか。
 時が流れるにつれ、紗江の気持ちは微妙に変化して、いつしか一郎を
慕う気持ちがどんどん大きくなっていった。
 一人の人間として一郎を尊敬し、憧れにも似た気持ちでずっと彼をみて
きた紗江だったはずなのに。

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ENO

ご無沙汰しておりました。
6.11 ザックジャパン応援しましょう!
イラク戦、ぜひ勝ってもらいたい。
それでは、またお邪魔します。

by ENO (2013-06-11 20:38) 

dan

ご訪問有難うございます。
今夜も楽しみですが、コンフェデはもっと楽しみです。
ENOさんのブログ忙しくなりますね。よろしくお願い
します。
by dan (2013-06-11 23:02) 

リンさん

久しぶりにdanさんの小説が読めて嬉しいです。
紗江さんの気持ち、少しわかります。
ひとりは寂しいですよね。
だけど家族がいる人を好きになったら辛いですね。
幸せな結末を望みます^^
by リンさん (2013-06-12 16:28) 

dan

有難うございます。
リンさんのように溢れるような文才がないので
つらいです。結末を考えると切なくなります。
by dan (2013-06-12 16:55) 

ENO

追記:ご訪問、ありがとうございました。
スミマセンが、曲目を間違えていました。
深くお詫び申し上げます。それでは・・・
by ENO (2013-06-12 17:15) 

SORI

自然に流れて行く文章が魅力的です。
by SORI (2013-06-13 22:47) 

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