思い出のエッセイ  梅の花に寄せて [エッセイ]

 愛犬との朝の散歩のときは気がつかなかったのに、夕方ふと冷たい風に
のってくるかすかな甘い香りに足をとめる。
 見上げると暮れなずむ空の中に、あちらに一輪こちらに二、三輪白い梅の
花が開いているる
 夫の仕事の都合で熱海に来てから半年、この散歩道は私のお気に入り。
だらだらと上り坂の曲がり角、左の赤い屋根の洋風の家には正面に丸い
高窓があり、なんとなく夢があって楽しい。玄関の扉も両開きで重そうだ。
 右側の家は和風で「梅の家」と薄れた字の小さい表札がかかっている。
塀は一抱えもある大きな積み石の上につつじが植えられ、石の内側には
五十センチ程の高さで二つに割った竹垣が巡らされている。門の格子戸を
通して敷き石に続く玄関のピカピカに磨かれた木の引き戸が見える。
時々あかりがついている白い障子の入った窓は、柔らかく心が和む。
 この二軒の家の庭に競うように梅の木が十本ほどある。早咲きの薄い紅
色、純白のちょっと小粒の花。初めて見つけた日から毎日少しづつ開いて
あっという間に満開になり見事な花のトンネルが出来た。
 毎日その下を通るときは、風は冷たくても足は止まりがち、ほとんど上を
向いたままの私の目には、花の向こうに青く澄んだ空があり、振り返ると
はるかに同じ色の海が光って見える。少し大げさだがまさに至福の時だ。

 幾日かが過ぎ、私たちを随分楽しませてくれた梅の花もある朝、一夜の
風で散り、踏むのがためらわれるほどの花びらの道が出来た。その上を
「贅沢だなあ」と思いながらゆっくり歩く。

 ちょうど二年前の二月、東京に住む子供たちが、私の還暦を祝おうと
湯河原温泉に招待してくれることになった。
 はるばる松山から電車を乗り継いで熱海駅に降り立った夫と私は、約束
までの時間を利用して熱海梅園を訪ねた。今を盛りと咲く色とりどりの花の
下を歩きながら、結婚して三十余年の来し方を思い、こうして元気で還暦を
迎えられたことに、感慨一入のものがあった。
 この時は二年後に熱海での生活がまっているなんて思ってもいなかった。
 そして夫が定年を目前にした二年前、再就職には全く無関心だったのに
突然熱海行きの話が持ち上がった。十指に余る趣味を持ち定年を楽しみに
していた夫は、私に相談することもなく、その意思はないと断ったようだ。
 しかし再三の要請に助け船のつもりで初めて私に話してくれた。
定年後はやることがいっぱいあるとあれほど言っていたのにどうして?
とむしろ応援のつもりで話を聞いた私は、勤務先が熱海と聞いて「えっ」
目の前がぱっと明るくなり光の輪のなかに、熱海梅園の満開の梅の花を
見たような気がした。
「行こう! 」私は一も二もなく賛成した。夫の仕事は未知数で大変かもしれ
ない。でも二、三年熱海に住んでみるなんて、素敵じゃないですか。
 親、兄弟、友人もあっと驚く決断で、夫は私にひっばられるように夏の終り
の熱海にやって来た。
 最初は松山とは全く違う街の雰囲気に戸惑い人々もなんとなくよそよそし
く感じられた。
 誰ひとり知る人のいない職場で孤軍奮闘の夫。愛犬以外話し相手のない
私。「失敗だったかなあ....」 大きな風船がしぼみかけた頃、私はあの素敵
な散歩道をみつけたのだった。
 「住めば都」とはよく言ったもので、この頃では三味線の音が聞こえてきそ
うな路地裏や、着物の似合う男性が座っている下駄屋、狭い坂道をひっき
りなしに走るバス、少し坂を登ればどこからでも見える海、みんなみんな好
きになってきた。
 春のような陽気になった一日、二度と来ることもないと思っていた熱海梅
園に夫と二人で行ってみた。二年前と同じように見事に咲いている梅の花
 この梅に誘われるように、熱海にやって来た私たちの選択は、やっぱり
間違っていなかったのだと私は自分に言い聞かせた。
 「定年後の楽しみはもう少し先だなあ」
夫がぼそっと言った。
 
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コメント 4

みかん

熱海の風景が目に浮かびます^^
梅園! 梅まつりの時期ですね。
子どもの頃は両親と妹と行って
毎回うぐいす笛を買ってもらってました♪
離れてみると良さを感じるものです(笑)
by みかん (2014-01-20 20:18) 

dan

十数年前に熱海で書いたエッセイです。
今思い出してもこの散歩道は素敵でした。
みかんさんが懐かしく思って下さって嬉しいです。
有難うございました。
by dan (2014-01-20 20:53) 

リンさん

熱海梅園、有名ですよね。
私にとって梅といえば、水戸の偕楽園です。
地震のときは閉園になって大変だったけど、これを読んで、久しぶりに行きたくなりました。
土日には黄門様も出没します。
よかったら足をのばしてみて下さいね^^
by リンさん (2014-01-30 17:49) 

dan

偕楽園八年くらい前夫と二人で行ったのを
今思い出しました。満開の梅の花。そうそう駅前の
黄門様、助さん格さんの像の前で写した写真が
あります。
アンコウ鍋を満足そうに食べていた彼の顔も
思い出しました。
是非もう一度行きたいです。
有難うございました。
by dan (2014-01-30 21:09) 

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