平成シニア物語  水仙 最終章 [平成シニア物語]

 十五年の歳月が流れた。亜紀の毎日は充実し家庭の雑事に追われる
こともなく、必死で仕事に取り組んだ。
六年目には小さいながらも自分の事所も持てた。
 輝美は教師の卓と結婚し、一人息子とずっと一緒に暮らしてきた康と
四人で幸せな時を過ごしていた。
 この十五年の間亜紀は一度も康や輝美にあったことはなかった。
嫌会えなかった。
 自分が考えていたより百倍も千倍も辛かった仕事との取り組み、それ
よりももっと亜紀を苦しめたのは、絶ち切ったはずの康と輝美への思慕
だった。常に亜紀のことだけを考え、自分の好きなようにさせてくれた康
の深い愛にやっと気付いた。
 血肉を分けた輝美への母性にもやっと目覚め、当たり前のように傍に
いた幸せというものを、自分の都合のみで手放してしまって初めて知った
亜紀の深い苦悩だった。
 でもそれは当然亜紀一人で乗り越えるべきことなのだ。

 大学の卒業式、桜吹雪のなかを楽しげに校門を出て来た康と輝美を
物陰からそっと見つめた日。

 結婚式の日教会の前で大勢の人たちに祝福されて、腕を組んで階段を
下りて来た卓と輝美を満足そうに出迎えている康の姿も確かめた。

 退院の日小さな赤ん坊を大切そうに抱いた輝美に寄り添う康と卓
の姿が涙にうるんで見えなかった秋の日。

 康が花束に埋もれてご機嫌で帰宅した定年退職の日。家の中に笑い声
が溢れその灯は遅くまで消えることはなかった。

 遠く離れていても孤独の中でも大切な時には亜紀はいつも家族と共に
いた。心の中でじっと見守っていた。そして本来ならそこにいるはずの自分
を想像した。亜紀は体の震えが止まらないほどの後悔の念にかられた。
 こんな人の世で最高の幸せと引き換えに、自分の手にしたものの価値を
改めて考えた。でも彼女に後戻りが出来る訳もなく、ますます仕事に没頭
した年月だった。


 部屋の前の小さな坪庭にも白い水仙の花が見えた。
 昔と少しも変わってないと思った康は、よく見ると白髪交じりの少し薄く
なった頭。男性にしては柔和な顔に深く刻まれたしわが目立った。
 亜紀は胸のふさがる思いでその顔を見つめた。彼の深い苦悩と寂寞と
した思いをその顔は物語っているように亜紀には見えた。
 「ごめんなさい」亜紀は思わず座布団から下りて畳に頭を擦り付けた。
あふれる涙は止めどなく流れた。

 康は亜紀の姿を黙って見つめていた。知り合って四十年の歳月が甦って
きた。自分は亜紀のことを想い続けた。自分の気持ちを殺し彼女の思い
通りにさせたことが本当の亜紀の幸せになったのだろうか。
 今目の前にいる亜紀は一回り小さくなって、若き日いつも何かに挑む
ように高いところを見つめていたその目から大粒の涙があふれている。
 亜紀は「ごめんなさい」の一言を言うために今日ここに来たのだと康は
思った。でもそれは決して後悔の涙であってはならぬ。別れて過ごした
年月を無駄にしてはならぬ。

 康は立ちあがると泣き崩れている亜紀を優しく座らせた。
彼に言いたいことは山ほどあった。でも今更それを言ってどうなる。
亜紀は亜紀なりに自分の思いとおり仕事を成就していたし、康も自分の
仕事は立派に勤め終え満足している。
 これから先今まで出来なかったことを取り戻す時間は二人には充分ある。
 康には愛しい亜紀の笑顔を毎日見たいという希み。亜紀だって暖かい
康の胸が恋しくない訳がない。
 仕事という枠から解き放たれてのんびり歩くこれからの日々。
いつか輝美だってきっと分かってくれるだろう。
 康はなんだか嬉しくなってきた。


「食事にしよう。ここの料理はなかなか美味しいんだよ。」
 康は何事もなかったように女将を呼んだ。
 
nice!(10)  コメント(6) 

nice! 10

コメント 6

リンさん

幸せって、あとになって気づくものなんですね。
それにしても康さんはいい人ですね。
ここまで相手を思いやれるのはまさに究極の愛ですね。
これから二人で幸せになってほしいな。
by リンさん (2015-02-26 13:23) 

dan

有難うございます。
世の中に一人くらいは康みたいな人いるかも。
夢物語にお付き合い下さって嬉しいです。
by dan (2015-02-26 18:59) 

みかん

あのときの選択がどうあるべきだったのか
あとになってわかるのでしょうね。
人生の分岐点とでも言うのでしょうか。
私の人生でもああすれば良かった
こうすれば良かったと思うところ ありますね(^_^;)

by みかん (2015-03-01 13:30) 

dan

誰でもそういうことあるけどなかなか思い通りには
いきません。ただ真剣に考えることかな。
若いみかんさんは今人生の花です。
有難うございました。
by dan (2015-03-01 16:53) 

智

水仙にちなんだ物語ですね、
たしか西洋水仙なら高慢・うぬぼれ・報われぬ恋、和水仙なら高潔が花言葉だったと思いますが、西洋水仙みたいな亜紀と和水仙の康の物語だなと。
こんどはdanさんの水仙随想を読んでみたいです、リクエストできますか?笑
by (2015-03-01 20:31) 

dan

水仙  花ことばからこのタイトルにしました。
花のイメージと違う花ことばにちょっと魅かれたので。
そこまで読んで下さってこんなに嬉しいことは
ありません。
有難うございました。「高潔」というのは知りません
でした。でもよかった、康にぴったりです。
 花ことばから離れた水仙随想書いてみたいです。


by dan (2015-03-01 20:54) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。