面影草  5 [短編]

 夕方から降りだした雨は夜になって風も出て本降りとなった。
 二週間振りのデートの私たちは少し浮き浮きと、いつもの喫茶店のいつもの
席に落ち着いて、このところのお互いの毎日を報告し合い笑っていた。
もう小一時間もそうしている。その間時々彼が窓の外に目をやり、ぼんやりと
考え込んでいることに私は気がついていた。
 今、彼は真っ直ぐに私を見ている。その眼差しにはいつもの優しさは消えて
強く厳しい決意のようなものが感じられて、私は思わず居住まいをただした。
 「結婚しよう。」
彼が突然言った。
 私は驚いて一瞬息が詰まって....ぽかんと彼の顔をみつめた。
望んでいたはずだった。嬉しいはずだった。すぐに「はい」と言うはずだった。
でも私は何も言えなかった。
 彼から目をそらし、窓の外の降りしきる雨を眺めていた。
 彼はこういう場面を想定してはいなかったのだろう。それでも気を取り直して
「ごめん突然で.....驚かせてしまったね。でも僕はもう決めた。返事はいつでも
いいんだ今すぐという話でもないのだから。貴女が考えて納得した上で返事が
欲しい。その時までぼくはのんびり待っているよ。」
 穏やかに諭すように私に話しかける彼の目は、もういつもの優しい目だった。
 気まずい空気を断ち切るように彼は立ちあがった。
 彼はいつもと変わった様子もなく私を電車まで送ってくれると、片手を上げて
振り向きもせず帰っていった。

 私は部屋に入ると堪えていたわけのわからぬ涙がどっと溢れてきて、ついに
声をあげて泣きくずれた。
 私はなにを躊躇しているのだろう。大好きな彼にどうしてすぐに良い返事が
出来なかったのだろう。
 泣き疲れて少し冷静になると、ここ一年あまりの彼のことを次々に思い出して
いいことばかりだったと胸が熱くなった。愛しい想いがこみあげてきた。
 今彼に言いたいことがいっぱいあった。でも臆病者の私はこの気持を言葉に
することは出来そうになかった。

 私は手紙を書くことに決めた。
 自分の気持を素直に彼に伝えたいと思った。

私は結婚について自分の意思よりも両親や周囲の思惑ばかり考えていたこと。
一番大切なことは自分自身の信念であることに気がついたこと。
 そして私の一生を共にするのは彼以外にないこと。
そして今までの優柔不断な私に彼が辛抱強く付き合ってくれたことへの感謝。
そして、そして今夜の彼のプロポーズの言葉が本当に嬉しかったこと。

 私はあふれる想いを心をこめて綴った。書いていくうちに霧が晴れるように
心が軽くなり、重苦しかった胸が軽やかに膨らんでいくような心地よさが私を
やんわりと包みこんだ。

 気がつくと雨も上がり窓には細い月の光が降りそそいでいた。
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リンさん

ああ、いいですね。
やっぱり手紙なんですね♡
文字にすると、面と向かって言えないことも伝えられますね。
歯がゆいほど真面目に、恋愛に向き合うふたりが素敵です。
by リンさん (2016-07-23 10:21) 

dan

有難うございます。
こういう恋愛昔は普通だったのですが時が流れ過ぎ
すっかり、その様子も変わってしまいました。
 現代の恋の形にどうしてもついて行けない、柔軟性のない私の一人よがりかもしれませんね。
by dan (2016-07-24 15:07) 

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