面影草  15 [短編]

彼と私のそれぞれの生活が始まった。理由もなく単身赴任してもらっていると
いう後ろめたさはいつしか消えて、私は一人を満喫していた。
 私の母が近くで一人暮らしをしていて、毎日のように様子を見にいっている
ことが私のなかでは少し心の負担を軽くしてくれていたのかもしれない。
 こういった生活について、彼も特に不満を口にはしなかったし、私も訪ねた
時の彼の仕事ぶりに安心していた。
 休暇が取れると二人でよく旅をした。私の母も連れ出して車で、列車でそして
飛行機で。
子供たちも東京に居を構えたので春や秋に誰からともなく話が出て、家族揃って
旅に出たこともあった。
 その合間を縫って私は古い友達と海外にも出かけた。
彼は外国は嫌だと笑って、一人で出かける私をのために空港までの送り迎えを
してくれた。
 私は結局彼が退職するまで彼と一緒に暮らすことはなかった。
二人ともその距離感の心地良さに慣れてしまっていたのかもしれない。
 
 彼は定年まで働いたら即リタイアして、のんびりと余生を送りたいといつも
言っていた。
少し早めに退職すれば後四年か五年関連事業に就職する道を殆どの同僚は選んだ。
 彼は言葉通りきっぱりと職を辞して嬉々として五年振りの我が家に帰って来た。
 本当にお疲れ様でした。家族のために頑張ってくれた、健康だったし離れていても
私たちに何ひとつ心配をかけることもなく、私は感謝の気持でいっぱいだった。
 二階の自室に運び込んだ荷物の多かったこと。彼が欲しがっていたものすべて
揃っていた。多趣味の彼がこれからここで過ごす日々には充分過ぎるほど。
 私は二人で頑張ったあの若かった日々、励ましあって切り開いて来た我が家の
歴史を胸が痛くなるような感動とともに思い起こしていた。
 彼は感傷に浸る間もなく乞われて町内会長を引き受け、あっという間に「浦島」
状態から抜け出て、いろいろな行事もこなして生き生きと毎日張り切っていた。
 私は何だか遅れてきた新婚気分で、今までの罪滅ぼしとばかりに頑張った。
 彼は自分流を貫き庭の手入れ、日曜大工、家の中の不具合は何でも修理できた。
趣味の切り絵も年に一回の東京上野での展覧会には大作を出品した。上京すると
一週間くらいは滞在して子供たちと温泉へ行ったり「命の洗濯」を忘れなかった。
 ハーモニカも教室の仲間と発表会に出たり、お年寄りを慰問したり楽しそうに。
若い頃から好きだったクラシック音楽や、演歌も好き、歌えば結構上手だった。
 版画、スケッチ、篆刻、まあなんて多趣味、私はただあきれ返ってみていた。
 穏やかな日々が静かに流れて、彼が夢に描いていた余生は永遠に続くものだと
私は信じていた。


 

 


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