桐の花 [短編]

 少づつ登っている感じがして道も狭くなった。 車がやっと通れるくらいだ。もうそろそろ目的地に着くころだと佐保子は目を凝らす。 辺りは生い茂った木々の緑が美しく、開け放った窓から森の香りも飛び込んでくる。  道路を大きく曲がったところで真正面に薄緑色の建物が見えた。やっと着いた。 駐車場に四五台の車も見えた。  車を停めると佐保子はゆっくりと建物に近づいた。三階建てのスマートなそれは、 老人ホームには見えない。窓も大きくて華やいだ感じさえする。 「とうとうホームに入ったよ」三日前に祥子から突然電話が来た。彼女は昔の職場の 先輩で佐保子とは三つ違い。しっかり者で頭がよくて信頼できる人だった。  お互い結婚しても付き合いは続いていて海外旅行にもよく行った。  長い年月が流れ二人とも年をとった。それでも元気で特に祥子は腰や膝が痛くなって からも、兎に角行動派で、誘われれば一人でツアーに入って旅もした。  佐保子はそんな祥子を見ながら、ただ感心するばかり、「旅の途中で足が痛くなったら どうするのだろう」とか、「杖をついてまでよく行くなあ」とか.....。  そんなに元気だった祥子が昨年の秋救急車で運ばれたという。肺炎と心不全で足がたた なくなったそうだ。  知らせを聞いて駆けつけたら、一週間前に会った時の彼女とは別人の祥子が、点滴の 管などいっぱいつながれて、酸素マスクまでしている。 意識はあるものの、何を言っても頷くだけで、その様子に佐保子は動顛してしまった。  結局半年も入院してどうなることかと心配していたのに、少しづつ回復して四月には 退院して、一時的にべつの病院に移った。  その病院がよかったのか彼女の生命力が勝ったのか、退院できることになった。  しかし一人暮らしの祥子は自宅に帰ることを断念してホームに入る決心をした。  それはずっと前から考えていたことだったが、思っていたより早くなってしまった。  広い廊下、明るいガラス窓、応対してくれた職員も感じがよくて佐保子は内心ほっとした。 もっと嬉しかったのはベットで迎えてくれた祥子が本当に元気になっていたことだった。 「ねえ、元気になったでしょう。」  挨拶よりも先に祥子が例の甲高い声で言った。 この声何か月振りに聞いただろう。口もきけなかった頃、頷くだけの時、電話をしてももそ もそと何を言っているのか分かり辛かった頃。  先生もこの年で半年も寝ていると寝たきりになる人が多いですと気の毒そうに言ったのに。  佐保子は思わず走りよって祥子に抱きついた。十五キロ痩せたという体は頼りなくて、つい 涙が止まらなくなった。みると祥子もぽろぽろ涙をこぼしている。  目が会った途端どちらからともなく笑顔になりはっはっははと笑った。  よかったよかった。  部屋はトイレとスマートな洗面台。その隣のベットとのちょっとした区切りに小さい障子 が二枚。作り付けのクローゼットもゆったりしている。 部屋の感じがなんとなく素敵で、佐保子は今までに行った何か所かの施設と違う暖かさの ようなものを感じて嬉しかった。  祥子の終の棲家となるであろうこのホームは佐保子の中では合格だ。  夫に先立たれて子供もいない祥子とはそんな話もよくしたが、それはもっとずっと 先のことだと思っていたのに。  現実はあまり考える余裕もなく、病院からの直結を余儀なくされた。    市内でも一等地にりっぱな自宅があり生活に余裕もあるのに。 病気をしなかったら、そして夫がいたら祥子の老後はもっと違っていただろう。  でもこれだけ元気になったのだから万歳ではないか。  佐保子の頭の中で複雑な思いが堂々巡りをしていた。  祥子は今車いすもいらない。小さな手押し車を押して食堂へも談話室へも行けるという。 寝たきりにならなくてよかった。  ベットに腰かけた祥子と本当に長い間話をした佐保子。  大きなガラス窓から柔らかな午後の日差しが差し込んで二人は幸せだった。    そのガラス窓の向こうに緑色に茂った大きな木がみえた。 佐保子は目を凝らした。その木の間隠れに薄紫の花が見えた。  桐の花。祥子は毎日この花見ているんだ。佐保子はそっと胸に手をおいた。  ふたりの大好きな花、この花が咲く頃、思いついたら車でよく山道を走った。  見つけると車を停めてしばし眺めた。 近くに行くことはできなかったけれど、遠くから飽かず眺めた。  そして祥子は俳句を佐保子は短歌を苦しみながらひねり出した。 「ねえあれ桐の花よね。」 「そうそう、このホーム決めた第一はあの桐の花がここから見えたことよ。」  祥子は自慢げに佐保子に笑顔を向けた。  佐保子は祥子のこの笑顔がいつまでも続きますように。  もっと元気になって来年はまたいつかのように、二人であの山の桐の花を見に行けたら どんなに嬉しいだろう。  窓の向こうの薄紫の桐の花がなんだか潤んで見えた。
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リンさん

ずっと元気で、自分のことは自分で出来て、住み慣れた家で暮らすのが、きっと理想だと思います。
だけどホームに入るという決断も、きっと前向きなものだったのでしょう。
訪ねてくれる友達がいるのは、とてもいいことですね。
じんわりと優しいお話でした。
by リンさん (2017-06-09 22:12) 

dan

有難うございます。
投稿してから文章の改行や段落がされてないので
驚きましたが、どうしていいか分からずそのままに
しています。
こんなことは初めてです。
本当に読みにくいのに読んで下さって嬉しいです。
by dan (2017-06-10 10:54) 

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