昭和初恋物語 ブログトップ
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 つゆ草の道  2 [昭和初恋物語]


 家に帰って自分の部屋に座ると芙美はどっと疲れを感じた。突然の晃の誘いに
何となく乗ってしまったのだが、男性と二人で食事をしたのは初めてだった。いや
正確にいうと二人で歩いたのさえ初めてのことだ。というより芙美は今までそうい
うことに、あまり関心がなかったと言うべきかもしれない。
 職場の年頃の女性たちは、男友達のことなど寄るとさわると話題にしていたけ
れど、芙美にとっては人ごとだった。
 なのに今日の私どうしたのだろう。それに佐原さんはなんで私なんかに声をか
けたのだろう。頭の中を?がぐるぐる回って自分が分からなくなった。
 ふと芙美は思った、でも嫌ではなかった。晃が言ったほど楽しくはなかったけれ
ど二人でいた数時間、芙美は決して不愉快ではなかった。晃のことは何ひとつ知
らないのに。
 次の日会社へ晃から電話がかかって来た。「昨日は有難う。また逢いましょう」
たったそれだけのことだったが、芙美は心の中で「そうしたいかも」と思っている
自分に驚いた。
 五時過ぎ帰り仕度をしていると、同期の好子が佳代と三人でお茶でも飲みに行
こうと誘った。
 よく行く喫茶店のいつもの席に陣取るとすぐ好子が言った。「芙美昨夜一緒に歩
いていた人誰?」「隠しても駄目」と佳代がたたみかける。芙美は顔が赤くなるのが
分かった。ああ、どちらかに見られたのだ。こうなっては逃れる術はないと腹を決
めた。「えっなんで」「あんなに堂々と商店街歩いていて見つからないとでも思った」
 二人には付き合っている彼がいて、いつもその話を聞かされていた。「隠してい
たんじゃないよ。あれはまったく偶然に出会って、ただそれだけ。例のサークルの
人で名前は佐原晃さん、その他のことは何も知らないの」「そんな人と、用心深い
芙美がどうして?」芙美は昨日の事をありのまま、二人に話した。偶然出会って、誘
われるまま食事に行った・・・・。自分でも何が何だか分からないのだと。
 二人は芙美の話をすぐには信じなかった。でももしそれが本当なら、その佐原さ
んという人、きっと芙美のこと好きなんだ、と決めつけた。男の人は何でもない人を
食事に誘ったりなんかしない。そして芙美がその人と付き合うのだったらもっと彼の
事しってからにしなさい。二人は先輩ぶって言った。



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 昭和初恋物語  つゆ草の道  1 [昭和初恋物語]


 梅雨の終わりのかなり激しい雨が、傘をさしたレインコートの肩に
しぶきかかる。
 芙美は雨は嫌いではなかったが、今日は何だか気持ちが沈んで
いた。「笹井さん」声を掛けられて振り向くと佐原晃が急ぎ足で近づ
いて来た。「ひどい雨ですねこれから真っ直ぐ帰えられるのですか」
と言った。一瞬とまどった芙美は「ええ」と応える。「それならこれから
食事しませんか。芙美は驚いて立ち止った。晃は真面目な顔をして
真っ直ぐに芙美を見ていた。
 彼とはこの四月から始まった市主催の「郷土を知ろう」という文化
サークルで一緒になり、まだ三回しか会ったことがなかった。十四、
五名の会なのでやっと名前を覚えたばかりの間柄だ。個人的な話
などしたこともなかった。「実は食後にコーヒーのサービスが付いて
いる割引券貰っちゃって、どうしょうかと考えながら歩いていたら笹
井さんを見つけたわけですよ」悪びれずに話す晃を見ていると、芙
美も何となくその気になって「私でいいんですか」と笑ってしまった。
 その店は感じのいい洋食屋で他に客はなく、年配の婦人が一人
カウンターから「いらっしゃいませ」と声をかけた。
 二人は窓際のテーブルに座った。ブルーのレースのカーテン越し
に雨の滴が窓ガラスを滑り落ちていくのが見えた。
 差し出されたメニューを見ながら芙美は、私何してるんだろう。あ
まり知らない佐原さんに誘われるまま、一緒に食事するなんて、と
あきれながらも不思議な感覚にとらわれていた。晃は浮き浮きと
カツカレーを注文して上機嫌のようだった。「まだ始まったばかりだ
けどサークルどうですか。僕は結構面白いと思っているんですよ」
芙美は上の空のまま「そうですね、私も楽しみにしています」と言っ
た。それ以外の会話もあまりなくて、二人で黙々とカレーを食べ、
サービスのコーヒーを飲んだ。
 店を出ると雨は上がっていて商店街の明かりが、歩道の水たまり
にキラキラ光っていた。
 電車のりばまで来ると晃は「ああ今夜は本当に楽しかった、笹井
さん有難うございました」と大きな声で言って手を差し出した。「私こ
そおご馳走になりました。」言いながら芙美は、晃の手に気づかぬ
ふりをした。二人はそれぞれの家路についたが、芙美は晃がどこに
住んでいるかも知らなかった。

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 宵待草ゆれて   最終章 [昭和初恋物語]


 次の年、やっと春の兆しが感じられるようになった三月半ば、耕が就職
の為、街を離れる日が来た。
 夜の船で行く彼を、会社の仲間たちが港まで見送りたいと言ったが耕は
断った。
 耕と香子が港に着くと、空と海を茜色に染めて水平線に沈む夕日の、最
後の光が、金色の霧のように辺りに降りそそいでいた。
 一番好きな浅黄色の着物に、渋い柿色の絞りの羽織を着た香子は、本
当に愛らしく、美しかった。
 耕は新調した濃紺のスーツに、香子のプレゼントの深いえんじ色のネク
タイをしめている。
 船に乗る人、見送る人、大勢の人の中で、二人は寄り添って立っていた。
いよいよ乗船の時、耕が香子の手をとった。そして強い強い力でその手を
握りしめた。香子は白い手袋をしたままの両手で、しっかりと耕の手を包み
込んだ。
 二人に言葉はなかった。万感の想いをこめて見つめる香子の瞳に、耕の
顔が次第にぼやけて見えなくなった。
 出航の時が来た。胸にこたえるドラの音と、蛍の光のメロディを残して、ゆ
っくりと船が桟橋を離れて行く。色とりどりのテープが、送る人、送られる人
を結び、大きな声が飛び交った。
 甲板で手を振っていた耕の姿も、みるみる小さくなって、薄闇の中に遠ざ
かって消えた。船の灯だけを見つめて、香子はいつまでも立ちつくしていた。
 耕と関わったこの四年の歳月が胸をよぎった。嬉しかったこと、楽しかった
こと、哀しかったこと、辛かったこと、その時々の耕の顔が浮かんだ。
 もう涙はなかった。
 香子は突然、耕と初めて二人で行った郊外の河原を思いだした。あの時
見た花びらを閉じた宵待草の群生を。

 あの夜、月は昇ったのだろうか。そして、その月に向かって、あの可憐な
花たちは、黄色い花びらをいっぱい、いっぱい開いただろうか。
 そこにはやさしい風が吹いていたただろうか。
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 宵待草ゆれて   12 [昭和初恋物語]

「香ちゃんは僕のこと恋人だと思ってくれているんだろうね。そしていつか
は結婚したい...と。僕もそう思って、今日まで香ちゃんに甘えて来た。でも
それは僕の我儘に過ぎない、それに気がついたんだ。今ここで僕は香ち
ゃんに結婚の約束は出来ない。そして、約束もしないで待っていてくれと
も言えない。」耕は言葉を切ってしばらく黙っていた。自分の心の中にあ
るものと戦っているようにも見えた。
 香子はついにこらえ切れなくなってぽろぽろと涙をこぼした。こんな場所
でなければ声を上げて泣いていただろう。そして、今彼に言いたいことが
いっぱいあると思うのに、言うべき言葉が見つからなかった。
 ただただ悲しくて切なかった。そして自分でも不思議なほど耕を恨む気
持ちはひとつもなかった。
「ごめん、本当にごめん」耕の目からは大粒の涙が落ちた。

 「耕さんの馬鹿、嫌い嫌い嫌い。私の馬鹿、本当に馬鹿。」
 香子は日記に同じ言葉を何回も何回も書いた。そして昼間耕が言った
言葉を思いおこした。私は結局都合よく利用されただけなのか。私が勝手
に好きになって、恋人気取りでいい気になっていただけなのだろうか。
耕さんは本当に私のこと好きだったのだろうか。それなら何故今になって
あんなにさらりと、こんなに辛い話を、私にすることが出来るのだろう。
 やっぱり私のことは、便利がよくて気のいい同僚に過ぎなかったのだ。
 香子の胸は冷たい氷に閉ざされたように重く、深い淵に沈んでいくような
悲しみが、体全体を包んだ。
 とめどなく流れる涙を拭おうともせず、香子は一夜を泣き明かした。

 その後、耕はもう香子の好意を受けることは出来ないと、何度も辞退した
が、香子は黙って今まで通り、その態度が変わることはなかった。
 秋には耕が希望していた商社への就職が決まった。 
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 宵待草ゆれて  11 [昭和初恋物語]


 二年の歳月がながれた。城山の若葉が燃え立つような五月。
 会社の仲間たち数人は結婚した。晴美か何とか耕と仲良くさせたいと
思っていた千津にも、今は結婚を約束した彼がいた。
 耕と香子も相変わらずで、周りのみんなも二人の結婚を疑う者はいな
かった。しかし二人は自分達の将来のについての話など、一度もしたこ
とはなかった。
 香子の母は、年頃の娘に何回かお見合いの話を持ち出したが、香子
は頑として受け付けなかった。
 そんなある日、耕が香子を城山に行こう、と誘った。天守閣を仰ぐ広場
のベンチに腰掛けると、眼下に見える町並みや、ゆっくり走る電車、遠く
に光る海が香子を幸せな気持ちにさせた。
 「久し振りだねえ城山に登るのは、ここはいつ来てもいい。僕の好きな
場所、香ちゃんに大切な話をするの、ここに決めてよかった。」耕が興奮
気味に言った。香子は思わず体を固くした。緊張が全身に走り、心臓の
鼓動がよく聞こえた。
 「僕来年、希望の会社に就職出来たら、この街を離れることになると
思う。そして三年くらいは、仕事に関する勉強をみっちりやらないといけ
ない。そして僕はもう、そうしょうと決めているんだ。この三年間香ちゃん
には本当によくしてもらった、どんなに感謝してもしきれないくらい。香ち
ゃんが支えてくれたからこそ、僕は自分の仕事も勉強も頑張れたんだよ
仕事のことでは辛いことも、きついことも一杯あった。僕のやり残した仕
事を、香ちゃんが黙ってやってくれていたのも知っている。本当に有難う。
 耕は今にも泣き出しそうな真剣な目で香子を真っ直ぐに見た。いつも
の優しい目ではなく、強い怖いような目に香子には思えた。
 香子は耕から目をそらして天を仰いだ。胸の動悸はおさまっていた。
耕が何を言いだそうとしているかが分かった気がした。そして、耕が何を
言っても、その言葉を素直に受け入れようと決めた。
 突然涙が溢れそうになったが、下を向いて唇をかんだ。

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宵待草ゆれて 10 [昭和初恋物語]


 慌ただしく時が過ぎて行き師走となった。
耕と香子は、この頃にはもう誰が見ても恋人同士にみえた。忙しい耕だ
が時々は二人で出かけた。香子の弁当作りは、会社でも知らぬ人はなく
て、特に男性陣は羨ましがっていた。
 それでも時々香子は思った。お互いに気持は通じ合っていると信じては
いたが、まだ耕の心の中をつかみかねている....と。
 耕は誠実で、やさしくて申し分のない男性だったが、香子の中には何か
満たされない思いがあった。
 この秋、同い年の大田峰子が結婚するため退職した。最後に二人でお
茶を飲んだ時「香ちゃんもいづれは坂上さんと、結婚するんでしょう。」と
当然のように言った峰子の声が、耳について離れなかった。
 それから香子は考え続けている。自分は耕との結婚を望んでいる。そう
なったら、どんなに嬉しいだろう。でもそれは、あくまで香子の一方的な感
情であった。
 後少しで新年というある日、仕事が終わってから香子は耕の部屋へ行っ
た。「耕さん、お正月どうするの。田舎に帰る予定あるの」炬燵に入ってい
た耕は「うーん考えているのだけど、年末の日直引き受けたから、正月三
日間しか休みないだろう。田舎に帰ってもね。」と気のない返事をした。香
子は一呼吸おいて「それなら家へ来ない?父母もそう言っているの。一人
のお正月は寂しすぎると思うし、」と一気に言った。
 本当はずっと前から考えていたことだったが、何となく言い出せなかった
「ええ、いいのかなあ、それなら嬉しいけど」と耕。「はーい決めた!!そうしま
しょう。弟たちも喜ぶと思う、きっと」香子の声は弾んでいた。
 香子はすでに両親には耕を紹介していた。父は役人らしからぬ気さくな
人で、母は朗らかで香子よりずっと明るい感じだ。二人とも気持ちよく耕と
の交際を認めてくれていた。
 耕は家族に囲まれた、温かい正月を想像して、ふと胸が熱くなった。
香子の優しさ、気配りを心から嬉しく思った。


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 宵待草ゆれて  9 [昭和初恋物語]


 国道に沿った、かなり高い土手から河原へ下りる細い道があった。
耕はすっと香子の手をとってゆっくりと下りて行く。香子は一瞬胸が高
なり、ふわふわと足を運んだ。
 ここまで来ると空の色ももっと青く深く、空気も新鮮で、少し上流にか
かる大きな橋の上を、人や自転車が通るのが見えるくらいで、本当に
静かだ。
 流れの近くまで下りて来て、耕が香子の手を離した時、彼女はふっと
我に返った。耕はうーんと手を上げて背伸びをしてから、大きな石の上
に腰を下ろすと「西本さんここへ」と隣を指さす。香子が言われた通り横
に座ると、耕が話しかけた。「僕が会社に入ってもうすぐ半年になるんで
すよ。皆に優しくしてもらって、頑張れたと思っています。西本さんには
美味しいお弁当を作ってもらったり、本当に嬉しかった。一度二人でゆっ
くり話してみたいと思っていたんです。で 、こんなところへ....。迷惑では
なかったですか。」「迷惑だなんて、私坂上さんに誘っていただいて、嬉
しくて、嬉しくて夢かと思うくらいです。」と香子の声は弾んでいた。
 二人はぽつりぽつりと、お互いの知らない家族のこと、今までのこと
や、これからのことなど素直に話し合った。
 香子は改めて耕が自分の将来に、しっかりした目標を持って勉強して
いることを知り、尊敬の念が起こって来ると同時に、少し寂しさも感じた
「私お弁当作ってきました。」彼女は提げていた包みを膝の上で開いた。
 白い菓子箱にズラリとサンドイッチが並んでいる。いちごジャム、卵、
ハム、トマト、所々に添えられたパセリの緑が食欲をそそる。
 香子は小さなポットから熱いコーヒーをついで耕に渡す。「美味しいで
すね」彼は満足そうに、サンドイッチをほおばりながら、じっと香子をみつ
めた。香子は耕の視線を感じながら、彼の楽しそうな様子が、また愛しく
てその胸が切なかった。
 香子がふと遠く目を転じた時、少し離れた土手のあたりに黄色いもの
が見えた。よく見ると、夕べ咲いて今は花を閉じている宵待草の群生だ
った。
 
 

 
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 宵待草ゆれて  8 [昭和初恋物語]


 約束の日曜日、香子は少し早めに家を出た。
 耕からの誘いは信じられぬくらい嬉しくて、今日が待ちどうしかった。
黄色のブラウスに、紺のベストとフレアスカート、一番お気に入りの服
を着た。
 夏も終わりに近いのに、太陽はまぶしくて目にしむような青空だ。
行く先は耕に任せて、十時半に私鉄の駅で逢うことになっていた。
この駅からは郊外に向けて三本の路線が出ている。一本は大型の船
が着く港へ、一本は隣町の漁港へ、もうひとつは街を抜け田圃の広が
る村々を通り、大きな川の流れる町へ。
 坂上さんは、どこへ連れて行ってくれるのだろう。初めてのデート....
香子は胸が弾んだ。
 「やあ」と手を上げて、約束の時間より十分も早く耕が現れた。白い
ワイシャツに黒の学生ズボン、さわやかな笑顔で立っている。
「おはようございます」香子もつい声が高くなる。改札を出ると耕はさっ
さと三番乗り場の方へ歩いて行く。香子は付いて行きながら、やっぱり
と思った。あの大きな川のある町に行くだろうか、そうならいいのにと、
思っていたから。耕と思いが同じだったことが、香子には無性に嬉しか
った。
 電車は二輌編成の小さいもので、乗客も少なく、ガタゴトとのんびり走
る。二人並んで腰かけた窓の外には、しばらく街の家々や学校、工場な
どが続き、大きな藁屋根の家が、ぽつんぽつんと見え始めると、辺りは
緑の田園風景に変わる。
 耕が「西本さんは、こんな田舎嫌いじゃないですか、映画でも観に行っ
た方がよかったのかな」と言う。窓から入って来る風に髪をなびかせて
香子は「いいえ、私この辺りあまり来たことがないし、こんな好い季節は
外の方が好きです」と応えた。
 一時間足らずで終点の駅に着いた。駅前には大きな古い民家や商店
が建ち並んでいるが、あまり人影は見えない。大通りをしばらく歩いて、
細い路地に入り、入りくんだ道をどんどん行くと、突然視界が開けて目の
前に松林の土手の下の大きな川が見えた。
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 宵待草がゆれて  7 [昭和初恋物語]

 
 次の日香子が出勤すると、会社の門の所に耕が立っていた。
いつも誰よりも早く出て来る香子だけど耕に逢ったことはなかった。
驚いて「おはようございます」と大きな声で言うと、耕は笑って近づ
いて来た。そして「昨日は美味しいお弁当有難う。驚いたけどご飯
もおかずも全部美味しくて、これ頂いてもいいのかなあと思いなが
ら、きれいに食べてしまいましたよ。」とお礼を言った。
 香子は「気に入って頂いて嬉しいです。坂上さんの好き嫌いなど
分からなかったので、ありきたりのお弁当になってしまったかなあと
思っていたので」。言いながら彼女は、朝一番にわざわざここまで
出てきて声をかけてくれた耕の気持ちが何よりも嬉しかった。
そして耕が心から喜んでくれているようなのが、もっと嬉しかった。
 その日から、香子は次に耕に持っていく弁当のことばかり考えて
いた。そして一週間が過ぎた。
 その朝は香子がいつもより早く出勤して、大学へ行く前の耕の部
屋に行った。「これ食べてみて下さい」と差し出す包みを耕は怪訝
そうに受け取った。「お弁当です。今度は海苔巻をつくってみました
この前誰かにお寿司好きだと話していたでしょう。」「えっ、ああ嬉し
いけど悪いなあ。でも有難う、頂きます」と耕は素直に頭を下げた。
 夜になって、卵やかんぴょう、シイタケ、三つ葉など程よい味加減
の巻きずしと、一寸細めのキュウリ巻き、厚焼き卵など、香子の想
いがいっぱい詰まった弁当を食べながら、耕は何か彼女にお礼を
したいと思った。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです。もし西本さんの都
合がよかったら、今度の日曜日どこかへ出かけませんか。考えて
みて下さい」と小さい紙切れに書いて、きれいに洗った重箱の上に
おいた。そして丁寧に風呂敷に包んだ。



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 宵待草が揺れて  6 [昭和初恋物語]


 耕はいつもは五時からの休憩時間に、簡単な夕食の下準備をしておいて
仕事が終わってから支度をして遅い夕食となる。でも月の半分くらいは、近
くの食堂へ出向いたり、出前を頼んだりすることになってしまう。
 今日は違った。耕は浮き浮きとお茶を沸かし机の前にどっかりと座った。
目の前にある、彼にはとても豪華な弁当のふたを開けると、急に胸がいっぱ
いになった。耕は幼い時に母を亡くしたので、弁当にまつわる楽しい思い出
などひとつもなかった。だから思いがけずこの立派な弁当をみて感動すら覚
えたのかもしれない。どれをたべても美味しくて、ひとつひとつ味わいながら
ゆっくり食べた。ほうれんそうの白和えは、耕にふと優しかった祖母を思い出
させた。そしてその笑顔に香子の顔が重なった。
 耕は香子のことを思った。彼女の気持ちが素直に胸にしみた。香子は控え
目だけど、いつも笑顔を絶やさず仕事をしてもてきぱきと手際がいい。施設
課の中心的存在で、誰からも好かれていた。
 耕もそんな彼女に好感はもっていても、今まで特別な感情というものはな
かった。何よりも大学と仕事に明け暮れる生活は忙し過ぎた。
 香子は毎日耕に会うたびに、自分の中でどんどん大きくなっていく耕への
想いをもてあましていた。とにかく耕の為に何かしてあげたかった。
 そして弁当を作ることを思いついた。これは自分の気持ちを相手に伝える
手段としても、耕の健康の為にもいい。一石二鳥だと香子は満足していた。
 今朝は早くから起きて心をこめて作った弁当だった。
 午後九時香子は自分の部屋の窓辺に座って、一人で弁当を食べているで
あろう耕を思った。何も言わずに黙って部屋に置いてきたけれど、あれでよか
ったのか、耕は喜んでくれただろうか。

 その夜香子は夢を見た。耕と二人で広い広い河原を歩いている。足元から
河原一面見渡す限りに、宵待草の黄色い花が咲いて風にゆれている。
どこかしら....ここは。耕が黙って香子の手をとった。香子の気持ちの高ぶりが
最高になったとき目が覚めた。 
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