面影草  1 [短編]

 雨の日彼はいつも古いこうもり傘をさし、くたびれた革靴でやって来る。
私は並んで歩きながら彼の顔を盗み見る。
今時の若い男の人でこんな傘を持ちこんな靴履いている人いるんだ.....と。
 彼はそんなこと気にする風でもなく、堂々と胸を張って歩いている。
靴にはすでに水が浸み、多分足は濡れているのではないかしら。
 貧乏なんだ.....と思いつつ、でも私はそんな彼が嫌いではない。
 半年くらい前私たちはある勉強会で知り合って、誠実で優しく少し神経質な
彼と、明るくて大ざっぱで嘘のつけない私は、意気投合してよく話すようになった。
「雨の日はこの靴に限るんだよ。」
ああそれでも靴のこと気にしているのだと私はおかしくなった。
「でも足濡れるでしょう。」
「まあね。でも僕靴二足しか持ってないから。」
そうなんだ!!可哀そうに、こんな雨の日に会うんじゃなかったと、さっきまでの
からかい気分がすーと消えた。
 私の様子に気がついた彼は「はっはっは」と大きな声で笑って
「美味しいものでも食べましょうよ」と話題を変えた。
私たちは街で評判の、鍋焼きといなり寿司をにこにこしながら食べて、あっという
間に幸せな気分にもどった。
貧乏人の彼がお金を払った。
 それからアーケード街を歩こうという私に、彼は堀端の道を歩きたいと言う。
 岸に茂る木々の影を映して堀の水は薄く霞み、水面には絶え間なく雨粒が落ち
続ける静かな昼下がり、二人は黙って堀に沿って歩いた。
 すれ違う色とりどりの傘の中で、彼の古い傘が私には一番素敵に見えた。
彼の靴は外目にも分かるほどずぶぬれで、足は水浸しに違いない。
 私は大好きな私の臙脂色の傘をすっと彼の傘に近付けた。
彼は私を見てにっと笑った。
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残りの菊 [短編]

 駅舎も街の様子もすっかり変わっていたが、駅前広場の大きな銀杏の木に
見覚えがあった。
 
菊乃が初めて裕介の実家を訪ねた日、もう四十数年も前のことだ。
 生涯の伴侶として両親に紹介したいと言ってくれた時、菊乃は信じられなかった。
 裕介と付き合って二年、彼を知るほどにその人柄にどんどん惹かれていった菊乃
だったが、ある時彼が由緒ある旧家の一人息子だと知り、自身のなかでは結婚のこ
とは考えないようにしてきた。
 菊乃は地方の平凡な共働きの両親と女四人の姉妹で、わいわいと育ってきたか
ら、古い考えかもしれないが、いわゆる、釣り合わない家との結婚の不幸をつい思
ってしまった。
かといってすぐに裕介と別れる決心もつかぬまま今日まで来た。
 菊乃が母にせがまれて両親に裕介を会わせた時も友人として.....のつもりだった。
両親は勿論裕介を一目で気にいってくれ、これから先は女性として幸せになって欲
しいとそう言った。
 裕介の実家は東京の郊外にあり、当時は大きなビルもない小さな街だったが先祖
代々の立派な屋敷を構えていた。
 菊乃は裕介に半ば強引に結婚の約束をさせられ、嬉しいけれど夢心地でおずお
ずと彼について行ったあの日。
 門から玄関へと続く敷石道の両側に広がる庭園の、大きな木や灌木の間から射
してくる木漏れ日が、菊乃には神々しくさえ思えた。
 そしてその下にしっとりと咲く、色とりどりの小さな菊の花に気が付いた時菊乃は
つい我を忘れて、「裕介」さん!と大きな声をあげた。「見て見てなんてきれいな花、
いつもこんな風なの、私の大好きな菊の花。」言いながら気がついて菊乃は声を
潜めた。どっと冷や汗が出た。
 裕介は笑って「いつも咲いていたのかなあ。気が付かなかったけれど」とそれでも
嬉しそうに「菊さんの気に入ってよかった」と呟いた。
 この日の光景は菊乃にとって終生忘れられないものとなった。
 裕介の両親は、快く菊乃を迎えてくれた。想像していたよりは堅苦しくなくて菊乃
はなんだかほっとした。
 裕介がどのように両親を説得したか知るよしもなかったが、旧家の一人息子に迎
える嫁だなどと構えて詮索する気は毛頭ないように見えた。
 当時父親は長らく勤めた県会議員を引退して、家業の建設業に専念しているとの
ことだったが、その後を継ぐことを強要するでもなく、若いものは自由にしたらいいと
快く二人の結婚を認めてくれた。
 この日、穏やかな笑顔を終始絶やさなかった母が、帰り際に菊乃に言った言葉が
今でも菊乃の耳の底にはっきり残っている。
「菊乃さん、裕介のことよろしくお願いしますね。ああ見えて彼は無口で気難しくて
案外細かい神経の持ち主なの。自分が望んでいることでも決して強要しない。相手
が自分で気が付いてやってくれるのが最高だと思っています。あなたも長い付き合い
でよく分かっていると思うのに、こんなこと言ってごめんなさいね。でも裕介がこんな
素敵な伴侶を見つけてくれたこと本当に嬉しいと思っています。有難うね。」
 母はそう言って菊乃の手をしっかりしっかり握りしめた。
菊乃は胸の奥底から突き上げてくるような嬉しさと感動で、何度も何度も頷いた。

 裕介と菊乃は東京で家庭を持ち三人の子供を育て送りだし、また元の二人だけの
静かな生活に戻った。
 裕介の両親は家業を父の弟に譲ってからは、よく二人でやってきて裕介一家と楽
しい数日を過ごした。裕介たちも子供が成人するまでは、田舎の祖父母を訪ねて幸
せな長い年月が流れた。
 大病もせず二人で余生を送っていた両親も八十半ばを過ぎて、合い次いでこの世
を去った。
 裕介も出版社を勤め上げ菊乃と二人の穏やかな数年が過ぎた時、突然の病に倒
れあっという間に逝ってしまった。
 みんないなくなった。
 子供や孫たちに支えられて頑張って来た菊乃も、十年余り経った今は少し落ち着
いた日々の中で、ふと裕介の故郷を訪ねてみる気になった。

 家を継いだ叔父が亡くなった後家業を継ぐ人もなく、屋敷も田畑も人手に渡ったと
聞いていた。

 駅からゆっくり歩いて三十分菊乃は見覚えのある屋敷あとに着いた。
敷地とわかる低い仕切りはあるものの裕介の実家は跡かたもなく消えて、荒れ果て
た庭の木々や灌木の間を秋風が渡っていた。
 何気なく道路に面した所の朽ちかけた木の柵に目をとめた菊乃は、あっと声を上げ
そうになった。
クモの巣の張った柵の向こうに、黄色い小菊が風に揺れているではないか。
菊乃は思わず走り寄った。よく見ると、白やえんじ色の花ある。
 この家の主が作った菊花園の名残ででもあろうか。
 菊乃は日暮れて少し冷たくなった風にも気づかぬように、その風に揺れる菊の花を
眺めていつまでもそこに立ちつくしていた。



  

 

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木枯らし一号が吹いた日 [短編]


 東京で木枯らし一号が吹いたと言う。
この街でも今朝の風の音は、なんだか冬の気配がする。
 美奈子は朝の家事を一通り済ませるとソファに座りこんで、一日の予定を考える
のが習いとなっていた。午後の買い物そして.....。それしか浮かばない。夫と二人
の生活では大した用事もある訳がない。
 美奈子が出かけるのは十年以上も続いているカルチャーセンターの文学講座だけ
それも週一回。時々は友人と食事やショッピングにも出かける。
 新聞を丁寧に読んでもまだ十時半、窓の外には晩秋の日射しに庭の木々の葉が
少し強い風にさやいでいるのが、カーテン越しに見える。
「一寸出かけてくるよ。今日は楽々園へハーモニカ演奏のボランティアだから。」
 夫は元気に出かけて行った。彼は定年退職後は、今までやりたかった様々なこと
に没頭して、楽しい毎日を過ごしているように見えた。
 時には美奈子と連れだって食事をしたり、季節の花を見に行ったり、付かず離れ
ずの二人の生活は快適だった。
 美奈子はテーブルの上の葉書を手に取った。昔の仕事仲間で作っているОB会の
今年の案内状だ。
 半世紀も前に青春を共に過ごした友の誰かが、もう皆年をとって暇になったのだ
から、時々会って話しましょうと言いだして十、四五年程前に女子だけの同総会の
ようなものが出来た。
 初回は遠くに嫁いでいる人もやってきて、三十余人も出席して盛り上がった。
しばらくは一年に一回のことだからと、親の介護中の人たちも、息抜きになると無理
をして参加した。
 それがこの頃では夫の介護や自分の病気などで、出席者が減ってしまった。
でも同じ市内にいても滅多に会うこともないからと会は細々と続いていた。
 美奈子は出席しょうと決めた。そして遠い遠い昔、職場で溌剌と働いていた若い
頃の日々に思いを馳せた。
 突然Kの顔が浮かんだ。全く唐突にである。彼は取リ引会社の人だったが、その
仕事ぶりや、真面目な人柄で女子社員たちに人気があった。
 美奈子も素敵な人だとは思っていたが、特別に関心がある訳でもなかった。
 二年ほどが過ぎ木枯らしが吹き始めたあの日、美奈子にKから付き合って欲しい
という旨の手紙が届いた。
 思ってもみなかった出来ごとに驚いたが美奈子にはすでに婚約者がいた。
 彼女はすぐにKに会って事情を話した。
「僕の入る余地はないですよね。毎日のように会っていながら、早く自分の気持ちを
伝えるべきだった.....」と彼は残念そうに美奈子をみやった。

 美奈子は懐かしい追憶から覚めて、ふと彼は元気でいるのだろうかと思った。
 長男の中学の入学式で偶然Kに出会ったことがあった。お互いに少し近況を話し
て別れた。それ以来の消息は知る由もない。
 電話をしてみようか。突然不思議な感情がこみあげて来た。

 どうしょうかと考えているうちに一週間が過ぎた。
その日美奈子は思い切って受話器をとった。呼び出し音が六回鳴って
「もしもし」
と弱々しい年配の女性の声がした。美奈子は一瞬胸の高鳴りを感じたが
「Kさんのお宅でしょうか」
「.......。」
「もしもし」
別の女性の声がした。美奈子は名前を名乗りKさんの昔の友人です。Kさんは
お元気でしょうか。と聞き旧姓も伝えた。
「私は手伝いの者ですが、お元気ですよ。少しお待ち下さい」
五、六分がひどく長い時間に感じた。
「もしもし」
聞き覚えのある声がした。美奈子は思わず
「覚えていますか?」
「覚えていますとも.....」
Kは力を込めてそう言った。
「電話だと聞いた時は突然で驚きました。随分久しぶりですね。お元気でしたか。
僕は今日は少し体調が悪くて横になっていたんですよ。でも今貴女の声を聞いて
元気がでてきました。」
 Kは突然の美奈子の電話を訝る風もなく、ただただ懐かしそうだった。
「お元気そうでよかったです。」という美奈子に応えて
「実はずっと元気で飛びまわっていたのに、今年の初めに体調を崩して、それか
ら次々とあちこちが悪くなって、今は週三回透析に通っているんです。一回の治
療に四時間もかかるんで大変なんです。」
 Kはさらりと言ったが美奈子は胸が痛んだ。そんな大変な彼に自分の思いつき
だけで電話したことを後悔した。返す言葉が見つからなかった。
「何も知らないでごめんなさい。」泣きそうな声になった。
「僕は嬉しかったですよ。何の楽しみもない毎日だから、また話しましょう有難う」
一つ年上の妻は認知症が進んで、今はお手伝いさんの手を借りているという。
 峰子は年月の残酷さを感じた。みんな年をとった。そしていつまでも元気でいら
れる保証なんて何もないのだ。
 五歳年上のKのことも思いやらず、若い日の感傷だけで彼に電話をしてしまった
ことを深く反省した。
 それでも生きていてくれてよかった。そしてほんの一時でも彼を癒すことが出来た
と思いたかったが、何故か胸の奥に重たいものが引っかかったままだった。

 美奈子は紅茶を熱めに入れた。レモンの香りが辺りにかすかに漂った。
窓の外の木々を揺らす少し強い風を、ソファに沈み込んだまま彼女はぼんやりと
見つめていた。


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りんどう紀行 [短編]

 フェリーは六時半にМ港に着いた。窓から外をみると港は朝もやにけむり
海は穏やかだった。
 一晩中エンジンの音を気にしつつも、志野はいつの間にか眠ったらしい。
船を下り港内を出ると目の前の大通りをМ駅に向かう。
 夜が明けたばかりの空は初秋の色を漂わせて、いい天気のようだ。
志野と同じようにМ駅方面へ歩くに人も大勢いて心丈夫な気がする。
 目的地のK駅まで、ここから普通列車で約二時間の旅だ。志野はこのゆっくり
走る列車の沿線風景が気に入っている。
 夫の転勤で初めてこの線を知り、二回目の今日はもっと色々見たいとわくわく
していた。
 М駅を出て三十分も走ると左側の窓に、突然滔々と流れる大川が現れる。
向こう岸は見えないほどの大川に沿って走る列車の音だけの世界。
キラキラ光るさざ波や遠くの対岸の景色は志野を夢の国へと誘う。
 川から離れて直ぐに沿線一の大都会H駅に着く。この駅の人の流れは凄まじく
田舎者の志野はここで乗り換えでなくて良かった....などとほっとしたりする。
駅の周辺にはビル群が林立し、動き出した大都会で人間もまた忙しい一日の
始まりなのだ。
 ここを過ぎると田園風景が続くかと思えば、小さな街もあったり池が見えたり
旅を楽しんでいることを実感し、退屈する暇のない二時間余りだ。
 目的のK駅は夫映の単身赴任地だ。

 先夜志野は夢を見た。
 広い広い野原に志野は一人で立っている。風が行き遠くに連なる里山は秋の
夕陽に茜色に包まれ、足元に青紫も美しいりんどうの花が咲いている。
後ろで誰かの足音がして、大声を上げた自分の声で目が覚めた。

 たったそれだけの夢だったが、目覚めてからもあのりんどうの花の色が志野の
脳裡から離れなかった。
 そしてこの時急に映のところへ行きたいと思った。
 彼も転勤して二年になるので、そろそろ帰れるのではと二人とも思っていたので
この時期の行き来は考えていなかった。
 夢のことは話さずに突然だけど訪ねたいと電話をすると、映は驚いた様だったが
「心配ごとではないんだね。仕事の方は大丈夫?」と嬉しそうに...志野には聞こえた。

 列車の揺れるままに流れる景色追っていると、夢が現かふとあの人の面影を見て
遠い遠い昔を思い出した。

 会社勤めをしていたある秋、レクで紅葉狩りに行くことになった。三十名程の若い
男女の山行きは賑やかで楽しくて、わいわいと渓谷を歩き、足を延ばした牧場で一
休みとなった。
 のんびりと草を食む牛たち、風にゆれるすすきの白波。美味しい牛乳を飲みみんな
大満足で楽しい時を過ごした。
 その時志野は牧場の柵に沿って揺れているりんどうの花を見つけた。こんな所に
彼女はしゃがみこんで、その花を眺めた。凛としたその花の色と姿が心に残った。
 夜の山小屋では歌ったり踊ったり、夜の更けるのも忘れて大騒ぎの楽しさ。
志野は少し疲れてひとりテラスのベンチに座っていると、すーと人影が前に立った。
同じ課のあの人だった。彼は手に持った小さな花束を前に差し出し「この花好きなん
だろう」と言った。そして驚いている志野の言葉も待たずに「あげる」と押しつけるように
花束を手渡すと、さっさと向こうへ行った。
 りんどうの青紫が月の光にさやかだった。彼は昼間の志野の様子を見ていたのか。
 その後あの人は何もなかったように志野に接した。二人は仕事以外話をすこともなく、
時が流れた。
 このことは志野もいつしか忘れてしまっていたが、青春の少し切ない思い出となった。

 あの夢はもしかして.....あの足音はあの人?

 志野が思いに耽っているうちに列車は目的のK駅に着いた。
 田舎の小さな駅で列車か゛止まった時、志野はホームの外の自転車置き場から子供
のように手を振っている映の姿を見つけた。
 遠目にも元気そうで、張り切っているように見えた。「元気そうでよかった。」志野は思
わず呟いた。
 映は出て来た志野に走り寄ると「元気そうでよかった。」と大きな声で言った。
二人が同じことを思っていたのだと志野は可笑しかったが、嬉しくもあった。

 二年前の秋転勤で初めてこの町に来た時、家の整理整頓、新任の挨拶回り、買い物
など目の回るような四日間だった。志野の仕事の都合もあり日にちもなかった。
 知らない町に一人住む映に心を残しながら、志野が帰る日の朝、何気なくみた庭の
片隅にひっそりと咲いているりんどうの花を見つけた。志野は大声で「ねえ一寸来て」
と映を呼んだ。「あの花、気が付いていた?」 志野の指さす先にりんどうを見た映は
「全然気が付かなかったなあ。前任者が植えたんだね。こんなにきれいに咲いている
のに気が付かなかったなんて....」映は庭に下りるとしゃがみこんで愛しげにその花に
見入っていた。その様子をみながら志野は、何故か急にこの家に親しみを覚えて少し
安心したものだ。
 あの日がら二年、志野はあの夢を見た時、この宿舎のりんと゛うを思いだした。そして
すぐに見たいと思った。
 映には笑われそうな気がして、そうとは言えなかった。でも花好きの映があの一群の
りんどうを、庭一杯に咲かせているだろうことは充分想像出来た。
 宿舎への道を映の運転する車に揺られながら、志野は夢の花を見に来たなどとは
決して言うまいと思った。こんなに嬉しそうな映に「突然貴女に会いたくなって来た」
などと言ったら彼はきっとご機嫌で、美味しいもの食べに行こうと財布をはたくだろう。
 映はにこにこ顔で口笛を吹いている。
 彼は今宿舎の庭一面に咲いたりんどうを見て、大喜びの志野の様子を想像して
充分幸せな気分だった。

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