つゆ草の道 5 [昭和初恋物語]
二、三日して思いがけなく晃から手紙が届いた。中には履歴書が一枚、最後の空
欄に両親健在、僕は男兄弟三人の真ん中です。と達筆で書かれていた。
芙美は思わずふきだした。いかにも晃らしい。あれからずっと考え続けていた自分
が急に滑稽に思えた。出会いはどうあれ自分では気がついていなかったけれど、初
めから晃に好感を持っていたのではなかったのか。一連の彼のやり方に本気で怒っ
たことなどなかったような気がしてきた。
芙美は手紙をポケットに入れると外に出た。家の近くにある池の土手に続く小道を
急ぎ足で歩いた。日暮れ間近の夏の太陽が西の空にあった。池にはボートが浮かび
オレンジ色を帯びた水面を夏の風が渡っていく。
芙美はいつものお気に入りの場所に、足を投げ出して座った。そして晃の履歴書を
広げた。晃は三歳年上で就職とともにこの街に下宿したようだ。芙美はこれを書いて
いる晃の姿を想像した。二人ではたった三回会っただけなのに、ずっと前から知って
いた人のような懐かしい気がしてなんだか切なかった。
晃と付き合ってみよう。
次の日曜日晃が是非にと東京の大学のグリークラブの発表会に誘った。そういえば
履歴書に書いてあったっけ。趣味:読書、音楽、ふつう~と芙美は思ったのだった。
市庁ホール満員の観客は、その美しい合唱に酔いしれた。高度のテクニックを要す
る歌曲から、楽しい童謡まで二時間半はあっという間だった。
外に出ると今日こそは、本当に芙美を家まで送るのだと晃はいたずらっぽく言って
先にたった。堀に架かる橋を渡ろうとする晃に「そちらからですか」と明るい電車通り
を帰るものとばかり思っていた芙美が声をかけた。「はい、この道僕は一人でよく歩き
ます。静かで月がよく見えて、それにずっと近道なんですよ」一瞬の躊躇ののち芙美
は後について行った。通りの反対側は公園になっていて、小さな砂場やすべり台、ブ
ランコなどがあり、昼間は子供たちの歓声で賑やかだ。
夜は殆ど人気はなかった。突然晃が歌いだした。~夜霧のかなたに別れを告げ~
ロシア民謡ともしびだ~お雄々しきますらお出でていく~芙美は驚いて立ち止りかけた
が晃は歌いながらすたすたと歩いて行く。芙美がいることなど忘れたように。
トロイカ、バルカンの星の下に、うるわし春の花よ、次々に歌う。
高く透き通ったその声は、夜のしじまの中で一際大きく響いた。芙美は後ろをつい
て歩きながら、ふと泣きそうになった。晃の歌声は本当に美しかった。
2012-02-17 11:57
nice!(1)
コメント(4)
ロシア民謡・・・懐かしい響きです。
新宿に「ともしび」という「うたごえ喫茶」があり、通いましたね。 すごく歌の上手い男性にあこがれたりして。
by rondo (2012-02-19 17:06)
田舎の私たちもみんなでよく歌ったものです。
何も無かったけれど、未来は今よりずっと明るかったような気がします。
いつもコメントありがとうございます。
by dan (2012-02-19 19:32)
初めまして♪
「虫めがね」から飛んできました!
いどばた倶楽部の木村と言います。
これから応援させていただきます。
宜しくお願い致します^^
by いどばた倶楽部 (2012-02-21 08:14)
有難うございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
「いどばた倶楽部」のぞいてみました。
面白そうですね。
by dan (2012-02-21 14:36)