平成シニア物語  葉桜の頃  終章 [平成シニア物語]

 家に帰ってから紅子はしばらくリビングのソファに座りこんでいた。
達郎は出かけているようだ。
 あれから沢野は紅子に声をかけるまで、迷ったり決心したりの繰り返しで
心が揺れたと言った。初恋の彼女のことも懐かしくて、今どうしているのだろ
うと同期生を訪ねたり、彼女の実家も調べてみたが何も分からなかったと。
 紅子は沢野のことを少し誤解していたかもしれない。本人が言うように単
純で物事を自分の都合のいいように解釈する.....。もっと軽い人だろうと思
っていた。そしてそんな人に声をかけられる自分を、そしてそれに応えてい
る自分を、心のどこかで許せない気持ちがずっとあった。
 今日の話を聞いて紅子は、随分楽になったと共に少しがっかりした。
沢野は紅子に関心があったのではなく、紅子に彼女の面影を見ただけだ。
そう、大人になった彼女を紅子の中に見つけようとしただけなのだ。
 その夜食事が終わってくつろいでいる達郎に紅子が言った。
「ねえパパ初恋の人のこと覚えている?」達郎は一瞬怪訝そうな顔をしたが
「そんなこととうの昔に忘れた。何だい突然に」あれっ達郎には初恋の人が
いたんだ。今までそんなこと聞いたこともなかったし、気にしたこともなかっ
たのに。「初恋の人ってそう簡単に忘れられないのじゃない?パパは薄情者
ね。」紅子の初恋の人は達郎だった。「嫌にからんでくるね、初恋がどうかし
た?」珍しく達郎が話に乗ってきた。「実はね」紅子は思い切って沢野とのこ
とを全部話した。少し胸がざわざわしたけれど、なんだかすっきりした。
達郎はしばらく黙っていた。紅子の見る限り彼の表情に変わったところはな
かった。「何だか都合のいい話だね。いい年をしてそんなこと言う男がいる
んだ。生真面目な紅子がころっとその気になったところをみると、彼はきっと
いい男なんだろうね。」達郎はそう言って笑った。紅子は何だか馬鹿にされ
ているようでムッとしたが言い返す言葉は見つからなかった。「それで紅子
はこれからどうする?初恋の人ごっこ続けるのかい。」顔は笑っていたがそ
の言葉は皮肉っぽくて紅子には嫌味に聞こえた。「パパはどう思うの。」
「僕には関係ないだろう。紅子の問題だ。」達郎は立ちあがるとリビングを
出て行った。こんな話愉快ではないだろう、と紅子は少し後悔をした。

 あっという間にうっとうしい梅雨が行き、殊のほか暑かった夏も終わりに
近付いた。
 その間紅子は時々沢野と二人の時間をもった。といってもコーラスの後
あの店でお茶を飲むか、そこらあたりを歩くだけだったが、紅子はこの頃
話上手で明るい沢野といる時を楽しいと思うようになったいた。彼が最初
に言ったように友だちになれるかもしれないと。
 達郎に話してしまったことで気が楽になったのだ。その後二人の間でこ
のことが話題になることはなかった。
 そんなある時沢野が車でやってきて、コーラスの後隣町の海を見に行こ
うと誘った。車なら三十分の道のりである。紅子は少し考えてから車に乗
った。「速水さん僕たちのことコーラスで噂になっているの知ってますか。」
車が動き始めるとすぐ沢野が言った。紅子は息が止るほど驚いた。全然
知らなかった。身じろぎもせずに前を睨んでいる紅子の様子に「別に気に
することないですよ。僕たちやましいことは何もないのだから。」と沢野は
低い強い声でそう言った。「それはそうだけど私はやっぱり嫌です。」
 どんな噂なのかは容易に想像出来た。紅子は愕然とした。
 夏の終りの海に涼を求める人たちが、思いおもいの場所で海を見ていた。
「海はやっぱり気持ちがいいですね。ちまちました人間世界が嫌になりま
す。」沢野も噂のことを気にしているのだと紅子は思った。いくつになっても
異性間の友情なんて難しいのかもしれない。若い時よく皆でこの話をした
けれど、中々結論はでなかった。
 沢野に声をかけられて、いつの間にか彼の初恋の人の身代りのになっ
たような気になっていた紅子。達郎とは違う明るい雰囲気の沢野にいつか
魅かれつつあった紅子。
 紅子はふうっと大きな溜息をついた。
 水平線の真上に太陽があった。あたりは茜色に染まり光る波は静かに
二人の足元に打ち寄せていた。
「今日食事して行きませんか。駄目ですよね。」沢野が言った。達郎にそう
言って出れば良かったと紅子は思った。「いつか行きたいですね。」やさし
く言う紅子に沢野が大きく頷いた。

 秋になって紅子は沢野に黙ってコーラスを止めた。沢野からは何度も電
話があったが紅子は出なかった。
 二人で海に行った日紅子は決心した。紅子が友情だと錯覚しかかった
沢野への感情が、違う思いに変わるのではないかと自信がなかった

 年の瀬も押し詰まり慌ただしく毎日を過ごしているこの頃では、紅子が
沢野のことを思い出すこともあまりなくなっていった。
 葉桜の頃から約半、紅子のなかで揺れた沢野への感情、あれは一体
何だったのだろう。

 朝から小雪の舞っていた日の午後、紅子は心をこめてコーヒーを入れ
お気に入りの白いケーキ皿にモンブランをそっとのせた。
「これでよしっ!!」紅子は大きな声で達郎を呼んだ。
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コメント 7

NO NAME

「パパはどう思うの。」
「僕には関係ないだろう。紅子の問題だ。」

紅子が友情だと錯覚しかかった
沢野への感情が、違う思いに変わるのではないかと自信がなかった

紅子が初恋を貫いた達郎だが もう少し温かみが欲しいと思う 紅子はこれから先 表に出ることは無いように思う 夫婦とは 窮屈な関係を強いる残酷な契約だ
それが倫理だと言われればしょうがないけど
by NO NAME (2013-03-26 12:41) 

左見右見

ごめんなさい 続けて NO NAME  にしてしまいました 

「これでよしっ!!」    もう一度 サークル活動にチャレンジすると良いのに そんな掛け声にしてほしい

私たちの世代は 他人事ではないように思う
by 左見右見 (2013-03-26 12:49) 

dan

いつも有難うございます。
達郎は内心気になったと思うけどわざと知らんぷりして
男の威厳?を保ったのです。(笑~)まあ自信もあったのでしょう。沢野を少しいい人にし過ぎましたかね。
by dan (2013-03-26 13:50) 

リンさん

思った通りの結末になって良かったです。
あそこで距離を置いて正解ですよね。
夫は不器用だけどいい人だと思います。
若い時なら堂々とヤキモチもやけるけど、だんだんそういうの出来なくなりますよね。

この話、けっこう入り込みました^^
面白かったです。
by リンさん (2013-03-26 17:09) 

dan

嬉しいコメント有難うございます。思った通りの
結末でしたか。ハイ、ここだけは決めていました。
本当に面白かったですか。全然自信なくて、私は
こういうのやっぱり苦手です。
リンさんのコメントは何よりの栄養剤です。
by dan (2013-03-26 20:42) 

かよ湖

こういうラストでホッとしました。やっぱり達郎と穏やかな毎日を送ってもらいたいです。
実は、私のまわりにも沢野のような人がいて、共通の女友達同士で、「色々な女性にメールしたり電話したり・・・OOさんが自分の旦那だったら嫌だよね」とか話しているその男性を考えながら読んでいました。
きっと達郎はコーヒーとモンブランの感想も言わないのでしょう。でも、それでいいのだと思います。男は寡黙で。
P.S.コメント遅くてすみません。
by かよ湖 (2013-04-29 00:30) 

dan

かよ湖さん今コメント見つけて小躍りでーす。
ハイ、実は達郎みたいな人私は好きです。
黙って好きな人のことを心底見つめている人。
私ってホント少女趣味が抜けないばーさんですね。
有難うございました。
by dan (2013-05-02 14:49) 

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