平成シニア物語 忘れ霜 終章 [平成シニア物語]
敬の手紙
四十数年振りに突然お手紙を差し上げる失礼を、まずお許し下さい。
加奈さん、こう呼ばせて下さい。私は高校生になって、初めて貴女に会ったその
日からずっと貴女を見続けてきました。
今更こんなこと言われても加奈さんには迷惑で、何の関係もないことだと思わ
れるでしょうが、今どうしても貴女に聞いて頂きたいのです。
私にとって加奈さんは、紛れもなく初恋の人です。生涯たった一度の恋。でも
私はこの気持ちを貴女に伝えることが出来なかった。勇気がなかったのです。
高校時代は学校に行けば、遠くからでも顔を見ることが出来私はそれだけで
満足でした。
私は大学に入るため上京することになった時、貴女との糸が切れてしまいそ
うで考えた末、年に一度の年賀状に私の気持ちを託しました。そして貴女から
来る年賀状がどんなに嬉しかったことか。
何度も手紙を書こうと思いました。でも年月が経ち少し落ち着いて考えてみた
時、私と貴女の住む世界の違いに気がつきました。
加奈さん貴女は裕福な家庭で大切に育てられた深窓のお嬢様です。私は戦
争で父を亡くし、母一人の手で育ち、その日の生活も苦しい貧乏人です。
私はこの境遇を恥じたことも恨んだこともありませんが、やっぱり貴女とのお
付き合いは無理だと考えました。
私は大学卒業を機に貴女のことを忘れる決心をしました。黙って諦めようと
思いました。でも最後にもう一度だけ加奈さんに会いたい気持ちを、抑えること
が出来ず、あの日駅で会う決意をしました。加奈さん貴女が来て下さるかどう
かなど考える余裕は私にはありませんでした。
実はあの日貴女に会うまでは、お茶でも飲みながら、今までの一方的な僕の
気持ちを話して謝りたいと思っていました。
でも駅で貴女を見た時、そうすることは私自身か゛もっと辛く惨めになることだ
と気がつきました。姿を見ただけでこんなに苦しいのに言葉など交わしたら....
黙っていよう。この決断は正しかった。
プレゼントのアルバムも、全く私の独りよがりであることは承知していますが
加奈さんを想う度に、私の胸の中でいっぱいになった貴女の姿を、すべてあの
アルバムに移してしまうことで、きっぱり貴女と決別し、自分の心の整理をしよ
うと思いました。
そうすることは思ったより苦しかったけれど、時はそんな私を少しづつ落ち着
かせてくれました。
そんな時貴女が結婚したことを知りました。私の中で何かが崩れて行き、心の
中がふっと軽くなったような気がしました。加奈さんをはっきり遠くに感じた一瞬
でもありました。
私もここからきっぱりと自分の道を歩もうと決心しました。
五年後私も結婚しました。子供にも恵まれ母も呼んで私にも一人の男として
の心穏やかで幸せな三十数年が過ぎて行きました。
昨年の秋、私は体調を崩し検査入院をしました。そして自分の余命が多くない
ことを知りました。
暗澹たる絶望の日々の中で、突然私は思い出しました。若い日加奈さん貴女
を好きになり、自分の想いだけで一方的に非常識な行動を取ったことを。
貴女は何も知らずに、不可解な気持ちのまま長い年月を過ごされたのではな
いだろうかと。
私はこのまま貴女に黙って逝くことは卑怯だと思いました。
貴女は私のことなど憶えてはないかもしれませんが、もう一度だけ私の最後
の我儘に付き合って頂きたいと思いました。ご迷惑だとも思いました。でもお許
し下さい。
若かったころの貴女に対する私の純粋な気持ちが、今少しでも貴女に伝われ
ばこんなに嬉しいことはありません。有難うございました。
加奈さん貴女の幸せをいつまでも願いつつペンを置きます。
加奈様 住田 敬
加奈は静かに目を閉じた。不思議な感動が彼女の胸に迫って来た。
自分の知らないところで、自分のことをこんなにも想ってくれた人がいたなんて。
若い日敬に抱いた不信と疑問が、今解けて行くのを感じると同時に、こんなに
も深い敬の気持ちに、全く気付かなかった自分の幼さが今更のように加奈の心
をざわめかせた。
加奈は押入れの奥からあの日のアルバムを出して来た。
かすかに色褪せた表紙を開けると、黄ばんだ台紙に若い日の自分の姿が次々
と浮かんでは消えて行った。「住田 敬さん」加奈は小声で呟いた。
その夜寝付かれぬままに加奈は庭に出た。春の気配の中にも冷気が漂い月
明かりの庭の草に忘れ霜がかすかに光っていた。
2013-04-19 20:21
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コメント(6)
純粋な人ですね。
余命わずかで初恋の人を想うなんて。
最後に加奈が名前を呟くところで、じんときました。
温かいお話ですね。
by リンさん (2013-04-20 23:22)
有難うございます。
なんとか最後まで漕ぎつけた感じです。
こんな男性いるかも、いたら素敵だなあ。
子供じみた私の妄想です。
by dan (2013-04-21 11:53)
あ~、やっぱり続きが気になる。
寝付けない加奈は、月明かりの下で何を考えていたのだろう。
突然の手紙に、余命がないこと・好きだったことを書いて、ただ伝えたいだけなんて・・・。それも卑怯だと思います。せめて、「返事だけでも」とか。
by かよ湖 (2013-04-29 01:13)
かよ湖さんお久しぶりです。うれしいなあ・
いつもあなたのブログ読んでいますよ。
敬は加奈の返事を期待しているでしょうか。
後は読む人がご想像ください!というのも卑怯かも。
有難うございました。お元気でご活躍期待しています。
by dan (2013-04-29 10:07)
こんにちは!
誤解されないように補足させてください。
読む人の想像は私もよく使う手で、どちらかというと好きです。
卑怯、というのはdanさんに対してではありません。あくまで登場人物である敬に対してです。読者にとって登場人物がいい人ばかりでは面白くありません。主人公の気持ちにのめり込むには、このような登場人物がいた方が面白いと思います。
敬はきっと返事なんか期待していないのでしょうね。だからこそ、加奈は困るのだと思います。女性を困らせるなんて…と、そんな感情移入をしています。
前回の作品も面白く読ませていただきました。ありがとうございます。
by かよ湖 (2013-05-01 12:41)
再びのコメント嬉しくて。でも私かよ湖さんのコメント
「卑怯」誤解していませんよ。私も実は敬のことを
卑怯な男だと思っています。加奈が何しようとしても
もう時間がないのですから。
いいアドバイス有難うございました。
また色々教えてくださいね。
by dan (2013-05-01 22:51)