春立つ日 ひとつのさようなら [エッセイ]

 視界から銀色の車体が消えた。
思ってもみなかった感慨が体の中心からじわじわと全身に広がった。
 
 立春と聞いてもまだまだこんなに寒いのに。と毎年思ってきた。
今年は違った。朝からうらうらと優しい日差しがいっぱい降りそそぎ風もない。

 こんな日に愛用のバイクとお別れできるのは良かったと思う。
十三年間お世話になった。買い物にカルチャーに命日のお墓参り、毎日の乗らない日はなかった。

 しかしここ二、三年は遠出は止めて近くの電停まで五分とかスーパーまで五分とか。
それに弟たちや子供たちに「バイクは止めろ」耳にたこが出来る程言われ続けたし、自分でも
もう潮時だと思えた。
 今年は免許更新の年だったので昨年秋に更新しない決心もした。


 このバイクは私にとって三台代目、必要にせまられ免許をとって三十六年無事故無違反を
通していたのに、五年くらい前初めての道で、一時停止の標識を見落とし白バイに。
 あの時の悔しさ、自分のミスを棚に上げにこやかに応対する若い警官を憎んだ。
それからは知らない道でも「一時停止」の標識はすぐ目につくので、捕まるのもいいか。


 バイクとの別れがつらい訳がもう一つある。

 このバイクは夫が亡くなる前年二人で買いに行ったものだ。ケチの私はもうそう遠くまでは
乗らないのだから、安いのにしょうと決めていた。
 彼は違った。「命を預けるものだから」とその時の最新型のホンダに決めた。
どれでもいいと言う私にヘルメットも一番いいのを選んだ。
 あの時の夫の顔は今でも覚えているが、私より満足げで嬉しそうだった。


 翌年夫が病気になり、入院していた四十五日間、私はこのバイクで毎日病院に通った。

 昨秋バイクは廃車を考えて買った店の店主にもそう伝えていた。

ところがたまたま訪ねて来た知人とバイクの話になり
「大切にきれいに使っているし、距離を乗ってないからまだまだ乗れる。うちのはもう時々
エンジンもかからないので、よかったら譲って欲しい」

 廃車してどこでどうなったかより、知人が乗ってくれたら私も嬉しいと思った。
そして二月に譲り渡す約束をしていた。

 一月東京から帰ってから暖かい日に少しづつバイクの掃除をして、保険証や防犯登録
キーも予備の真新しいのと揃えて、いつ知人が来てもいいようにしておいた。

 昨日待ちかねて電話をした。知人はあまり早々に行くのもとためらっていたらしい。


 そして今日ご夫婦で見えて、諸手続きの準備も終わり、ゆっくりとお茶を飲みながら
「どうぞよろしく」と私。
「有難うございます」と知人。

 颯爽と私のバイクに乗った奥さんが軽快なエンジンの音を残して帰って行った。


 バイクが見えなくなった途端何故か切なくて苦しくて胸がいっぱいになった。
気がついてはいなかったが、私にとってはやっぱり大切なもの。夫との思い出のバイク。

 蝋梅のかすかな香りが風にのって漂っている。庭の寒あやめも愛らしい紫を見せている。
 
 穏やかな春立つ日のさようなら、私の優しい思い出がまたひとつ。








 

 

 


 



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最後のメール「おやすみなさい またあしたね」 1 [エッセイ]

 私が唯一無二の親友Hさんから最後のメールを受け取って三週間が過ぎた。
 
 その間自分が何をしてどうなったか、今でも夢の国をさまよっているような頼りなさで
毎日の生活を普通にしているのが不思議な気がする。

 年末年始やゴールデンウイーク そして思いついたら子供たちのいる東京へ飛ぶ。
本音は十五歳からの友であるHさんに逢える、待っていてくれるそれが何よりの楽しみ
だったからだ。
 そして今回も毎日のメールや電話で「いつ来る?」「あと二日ね」「待ち遠しい」と。

 上京して四日目やっと十二月二十五日十一時半に会えた。私が風邪気味だと知って
「それなら私がそちらに行くよ」
 にこにこといつものHさん、改札口で待っている私。いつものように固く手を握って大笑い。
 色白で本当に綺麗な彼女とそうでなくても汚い上に、今回は帯状疱疹の跡が顔の右半分に
ああ私の顔。
 毎日メールで報告はしていたけれどきっと驚いたと思うのに
「あらもうほとんど分からないよ」
くどくど説明する私に笑顔が反って来る。あくまでも優しいHさんだ。


 デートコースは決まっているいつものお寿司屋さんで二人の好きな握りずし。
メールでは足りないあれやこれ話はいっぱいある。でも喋っているのは私だけ。
彼女は聞き役で相槌をうちつつたまにぼそりと一言。
 街を少し歩いてこんどは喫茶店ホットコーヒとモンブラン、これもいつも通り。

 それがあの日は恋の話になった。美しくて性格がよくて成績優秀なHさんがモテない
訳がない。中学高校と好きな人がいた。私はこの頃男子なんか眼中になかった。
恋など学生のするものではない、そんな人は不良だと思っていたのにHさんだけは許せた。

 珍しく彼女がよく喋った。優しい人だから「来るもの拒ばまず」だったのかなあ。
 中学の時のO君には後日談もあって初めて聞く私はまあ、とあんぐり。
 高校の時はN君М君二人いた。М君は古希の同窓会の時、隣の席にいた私がからかったら
「結婚したかった」とはっきり言った。彼とのことは私も少し覚えている。欠席していた
彼女に早速報告したら、ふふふと笑って「結婚なんて....」あっさり言った。

 ともかくこれらの話は、真剣な恋ではなくて彼女のなかではきっと青春の素敵な
思い出なのだろう。

恋多きМさんも大人になって結婚した素敵な旦那様と五十余年を添い遂げて、二年前に見送り
私と同じ一人暮らしになった。
 
 今度会う新年はいつものように上野公園をぶらぶらしてから浅草寺にお参りする約束をした。

 四時四十二分、駅の階段の上と改札口で二人は手を振って別れた。

 この時の別れが二人の永遠の別れになるなんて。

 いつでもМさんは私が死ぬ話をすると怒っていた。夫を亡くしてもうこの世に未練はないと
言った時も
「何言ってんのよ、旦那様の分まで生きなくては」
と強い口調で怒こったし、私たちもういつ死んでもおかしくない年になったと友だち同士で
話していても
「馬鹿なこと言わないの」と叱られた。

 彼女にとってはまだまだ素敵に生きる自信があったのかもしれない。
 
 涙はほとんど流してない私が、あっメールしなくてはと思い出してはもう彼女はいない
と胸が痛くて悲しくてつい涙が溢れてしまう。
 
 二人のこのメールは毎日もう十年以上続いている。最初の頃はああした、こうしたと四、五回
行き来していたのにこの頃では精々二、三回
「私ら年取ったんかねえ」とついこの間も笑ったところだったのに。

 そしてつい今夜もつい「おやすみなさい またあした」のメールを開けてしまう。
 

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敬老の日 [エッセイ]

 黄金に実った稲田を囲むように真っ赤な彼岸花が咲いた。
 我が家は六十軒くらいのこじんまりした団地で、もう半世紀余りが過ぎ人も家も老いた。
それでもそれなりに皆さん元気で平穏な日々を有難いと思っている。
 昔はここも田舎だったが、今は歩いて十分以内に生活に必要な商店、病院はすべてある。
市の中心に出るのもバスでも二十分。シルバーさん?でも快適な日常生活は維持できる。
 それに団地の北は市街化調整区域とやらで、かなり広い田圃が残っている。
三分の一しか稲作はなくて後は休耕田。よくわからないが田圃もそう簡単には売れないらしい。
 ここがまた素敵で夕方薄暗いところに子供くらいの鷺が座っていていてギョッとしたり。
小さな鳥も沢山いるし、草花も色を添え、セミや虫の声も、季節の風も嬉しい。

 彼岸花をみていて、あれっもしかして敬老の日かもと思った。この頃の祭日は分かりにくい。
何の予定もないので近くの施設にいるSさんを訪ねようと思いついた。
 そうだ彼女は九月に八十八歳。米寿だ。
花店でお祝いの花籠を作ってもらった。
 独身で過ごし書道は県展の会員、川柳も名人クラス。それなのにお茶目で可愛い人。

 赤やピンクの薔薇に白や紫の桔梗、赤紫の竜胆も。ふわつとカスミソウを入れて、さすがプロ
私も満足、Sさんにお似合いの美しくて可愛いいプレゼントが出来た。

 突然行ったのでSさんの歓びようは大げさで、二人で涙を流して泣き笑い。
特にお花のことはきれい嬉しいと、子供のように喜んでくれた。
 彼女は末っ子なので八人の兄姉はもうだれもいない。私と同い年の姪が後見人のようなもの。
その彼女も病気がちで、前のように度々来てはくれないらしい。

 Sさんは特に病気もなく頭もしっかりしていて、話していても楽しい。
 ただ今回三か月ぶりだったのだが、あれっというほど部屋が乱雑で、花籠をどこに置くか
考えてしまった。
 病的なほどきれい好きで、銭湯に自分専用の椅子を持って行くのでみんなに笑われていた。
今度掃除しに来るね。怒るかと思いながら言ったらはっはっはと笑って、ずっと前姪が来た時
ここの職員さんと台車でごみを捨ててくれたのだと言う。
 
 そうよね。米寿だもの少しは年寄りらしいところがないとね。

 昔話をいっぱいして最後にSさんが
「ねえ昔、貴女と喧嘩して一か月も口きかなかったの覚えている?」
「覚えているよ。私が長いお詫びの手紙を書いて朝事務所の机の引き出しに入れておいたら
帰りにSさんからの手紙が私の引き出しに入っていたのよね。」
 そうそれで仲直り、喧嘩の原因は忘れたと言う。私は忘れていない。

 長い年月が過ぎてもさっと昔にかえって話せる友だちがいることは嬉しいこと。
 今度は本当に掃除しに来るからと約束して家路についた。

 楽しかったけれど少し切ない。

 それでも有意義な敬老の日だったと、Sさんのあどけない笑顔をもう一度思い出してほっこり。
 
 

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真夏の石和温泉へ [エッセイ]

 この暑さをどのように乗り切ろうか。
このところ自分なりに体調を考えながら、よく働いた気がする。
日常の家事もやっとこさのくせに、ひとたび何かの整理など始めると頑張ってしまう。
 特に机の抽斗や、古い書類などが入った缶などを何気なく見つけると始末が悪い。
懐かしさが先にたって、整理を忘れて読みふけったり、当時に帰ったり。
 ここで一人でこんなことしているより、あっちも暑そうだけどやっぱり行こう。

 そして上京した。息子たちも夏季休暇を取り早速温泉を予約して待っていてくれた。
 ところが予約した那須は台風進路にすっぽりとはいった。
さあどうする。中止は残念と意見が一致。あれこれ考えた末にぎりぎりで台風を避けて
石和温泉に決定した。

 いつものことながら私たちの旅は観光よりのんびりと温泉に入りご馳走を食べること。
それと往復の電車が楽しい。でもあまり遠いのは嫌。

 青い空と高い山、流れる大きな川があれば私は満足。
そしてもしかしておまけにいい短歌でも出来ればしめしめなのだ。

 私はこの高い山が連なって見え、ぶどうや梨畑しかない鄙びた石和温泉が好きだ。
今回三度目。
 初めては、三十年くらい前、石和で温泉が出た。と聞いて、甥の結婚式に上京した時
 夫と二人で行った。雪の降りしきる日。ここには本当に温泉しかなかった。
でも甲府で食べた熱々のほうとうの美味しかったこと。
 道路の突き当りにどーんと大きな富士山が普通にあることに感動して、寒さなど
吹き飛んで二人で長いこと眺めたこと。忘れられない。

 次は仲良し三人の旅で富士五湖に行った時二十年くらい前、一晩は石和に泊まろうと
私が勧めた。大分温泉町らしくなっていた。友もよかったと言ってくれた。

 そして今回三度目、子供たちにすっかりおばあさん扱いされて内心不満な私。
それでもどこまでも青い澄み切った空の色、二千メートル級の連山のそれぞれ違う
藍色の木々の色模様。自然は変わることなく人々の営みに寄り添っている。

 今年のように、全国いたるところで自然の怖さを思い知らされても人間は戦うしかない。
 頑張るしかない。

 手足を伸ばしてゆっくりと湯舟につかり、暑いけど温泉はいいと思う。
食べられそうもないくらい、次々出てくるお料理も本当に美味しい。
 命の洗濯も出来たし寿命も少し伸びた気もする。彼も勿論一緒。
子供たちも優しい。口にはださないけど有難う。元気でいなければとつくづく思う。

 台風のことも忘れて、涼しい旅館で時間延長してのんびりすごした。
 帰りに駅まで歩いた灼熱地獄の七、八分。暑い暑い甲府は三十六度だったそう。

 特急「かいじ」は快適で、陽の光いっぱいの夏連山と笛吹川。

 ふふ いい歌が出来そうな気がしてきた。


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七月十三日 金曜日 [エッセイ]

 青い空も照り付ける太陽のギラギラした光もあの日と変わらない。
ただ流れた年月だけがいかにも長くて、こんなにもと今更のように思う。

 四十五年前の七月十三日金曜日、父が五十九歳で亡くなった。
三年前に初期の胃がんが見つかり「手術は大成功でした。」と執刀した医師が太鼓判を
押してからたった三年。
 職場の花見の宴席で倒れたが検査の結果貧血ということになり、入院をすることもなく
治療しながら仕事をしていた。
 私はこれですっかり安心して胸をなでおろした。
この世で誰よりも大好きで心から尊敬できる父だったから。
 六月の父の日のプレゼントのゴルフボールを持って行ったとき、何だか元気がなく
あまり嬉しそうな顔をしなかったことが、心にひっかかった。
 ゴルフ大好きでお世辞にも上手とはいえなかったが、弟や妹たちとよくでかけていたから。
 それから間もなく体がだるいと言い入院をすることになった。
一週間ぶりに見た父は車にのるのも辛そうに弱っているように見えた。
 それから三週間、入院してからは割に元気で、私たち一家は毎日のように様子を見に行った。
 七月十二日の夜見舞った時父が、
「今夜は泊まって行きなさい。」と大きな声で言った。
私は夫と顔を見合わせて
「泊まれと言っても四人も?お母さんもいるし」と言うと
「そしたらいいよ。」呟くように言って寂しそうに笑った父の顔を私は忘れることが出来ない。
 翌早朝父の様子がおかしいと、母からの電話に夫と二人で飛んで行った。
 その時何気なく見た日めくりカレンダーの七月十三日 金曜日という文字がとても嫌だった。

 母、私たち子供、孫が見守るなか十時五分父は安らかに旅立った。

 私が駆けつけた時「今朝は少し体がだるい」と話も出来たし先生も緊急事態とも言われず
弟たちと職場に「少し遅れます」と順番に公衆電話をかけたくらいだったのに。

 その日から私は十三日の金曜日が嫌というより恐ろしくなった。
このことを話題にしている友などに
「そんな迷信みたいなこと、馬鹿みたい」
 と、もともと迷信とかゲン担ぎをまったく気にしていなかった私だった。

 そうそうあの日「太陽にほえろ」の一番人気だった刑事も殉職したんだった。

 七月十二日の夜病室の付き添い用の和室、四畳半もあったのだし真夏のことでお布団も
いらなかったのだから、泊まればよかった。仕事や子供の学校のこと、自分たちの都合だけ
考えていた私。
 父の最後の願いを、それも簡単なことなのにそれを聞かなかったことが情けない。
毎日行っても泊まれなど言ったことなかったのに。
 ずっとこのことは私の中で悲しい思い出になっている。夫ともこの話はしたことがなかった。
きっと彼も私と同じ思いだったのだろう。

 四十五年目の七月十三日 金曜日 私の結婚式の日の父母と並んだ嬉しそうな写真を
朝から何回も見ている自分がおかしい。
 
 今頃天国で三人で私の話をしているのだろうと思うと心が逸る。ああ。
 



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卯月のこころ模様 [エッセイ]

 今年の桜はもう葉桜。
 卯月半ばだというのに目に飛び込んでくるのは、きらきらと若緑の輝き。
 我が家の゜庭も遅咲きの藪椿の一二輪が小さく赤く咲き残り、紫木蓮と花周防のほかは
初夏の感ありというところ。

 私の中で卯月は大切で嬉しい楽しい思い出がいっぱいつまっている季節なのだ。

 卯月の声を聞くとそわそわ、朝から晴れ渡り降り注ぐ太陽の光までが微笑みかけて
くれるような日は、思いははるかうん十年前に猛スピードで遡り、若かりし頃の自分を
みつけて満足だげと、我に返れば苦笑い。
 
 私のそばで勿論、彼もしっかり若返ってにこにこしている。

 今日は四月十一日。ふと閃いて確信にも似た想いで思い出のひとつを持ちだしてきた。
便箋の色も赤茶けて、何度も読み返した私の指紋と涙で薄汚れている彼との往復書簡

 少しドキドキしながら、そっと最後のページの日付を見る。
 「昭和三十五年四月十一日」私は大声を上げたい衝動にかられた。「やっぱり」

 「これがフィアンセとして貴方に贈る最後の手紙になるでしょう」
 心を込めて書いた私の万年筆の文字が、あの時の私の気持ちを鮮明に思いださせた。
 そこには離れ住んでいた結婚までの切ない三年の日々、いつも我儘で自分の思いを通し
続けた私を、優しく見守ってくれた彼への感謝と、結婚したらあなたが望むいいお嫁さんに
なりますと、可愛らしい?私の決意がしっかりと書かれている。

 三日後の彼からの返信には、こんな理想の家庭を作りたいという彼の三つの「信条」が
書いてあり、それは、若い二人で生きていくこれからの生活が容易でないことを、私に
知らしめるに十分な説得力があり、身の引き締まる思いがしたものだった。
 手紙の最後には私にたいする約束事が三つ、彼の優しさが溢れる言葉で綴られている。

 今日のこの手紙を読むことになった偶然を、私は彼からの贈り物だと信じている。

 そうそう「これから二人で生きていく歳月は長ければ長いぼといい」手紙に書いてあった
この言葉だけが唯一彼が果たしてくれなかった私との約束だ。

 彼が逝って十年余、時々取り出してみるこの手紙が、私に生きる元気をくれる唯一の
ものとさえ思えるのだ。

 卯月 うらうらと暖かで優しいのに、青い空をみているとふと胸が痛くなる。
 白山吹の花が、やさしい風にゆれている卯月の昼下がり、ひとりの私。
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春がそこまでやってきた [エッセイ]

 庭の白梅もいつの間にか満開になり、固い蕾だと思っていたさくらんぼの花も

薄紅に開いて朝の日差しをうけています。

 朝昼夜と食事をするだけでのらのらの私は、イマイチの体調のこともあって

まるで入院しているのと同じ、ただ違うのは自分で食事をつくることくらいだと

娘に言って苦笑されていました。

 でもこのところ急に暖かくなり、お雛様を出し桃の花を飾るとなんだか嬉しく

なって元気が出てきました。

 デパートへでも行ってみる気になって、二人のもっとも親しい友に電話してみました。

 「そうねえ久し振りに出かけようか」という返事を期待していたのにがっくり。

 同じ年の彼女は

「買いたいものもないし、昨日眼科へ行ったばかり、その上旦那の食事つくりも大変で」

 二歳年下の彼女は

「風邪がまだはっきりしないし、好きでもない犬の世話でくたくた出かける元気がない」

 ああ二年前までは月に二回カルチャースクールに行って、楽しいお昼ご飯食べてお茶を

飲んで喋って、夕方帰って来ていたのに。

 確かに年はとったかもしれないけど、寂しい気持ちが私を不機嫌にさせました。

 そして又他の友に声をかける元気もなくなりました。

 でもあまりに春らしい今日という日、私はちょっとおしゃれをれをして一人で街に

でかけました。

 といってもバスで二十分あまり、思いつきさえすれば何のことはないのです。

バスの窓からみえるお堀の水はゆったりとして、白鳥があちこちに羽を休めています。

岸の寒桜や紅梅白梅も美しく、私の好きなせんだんの大木には今薄黄色の実が鈴なりで

辺りの芽吹いてきた木々との調和は、ここでバスを降りたいと思うほど。

 そして見えてきた、青い空のした城山のてっぺんにそびえるお城の天守閣。

どこのお城より美しいと私は思っています。

 仰ぎ見るたたづまい、天守閣からの眺めも文句のつけようがありません。

 デパートも疲れるほどの人もいなくて、いつも行く店の彼女が歓迎してくれました。

予定にもなかった買い物もして、市内一の商店街を歩きます。

 半世紀以上も前からあるアーケード街も昔からある店は数えるほどしかありません。

でもなんだか気持ちは浮き浮きして、遠い遠い昔の思い出が胸をよぎります。

 街行く人はみな楽しそうで若い人が多い気がしました。

そういえばあまり年配の人は歩いていません。

 足がわるいのか、病院か、デイサービス?

 嫌だいやだ、自分の思いを打ち消して、私は必要以上に背中を真っすぐにして

さっさっと歩きました。    転ばないように細心の注意をはらって。

 一人ではダメな私。コーヒーも飲まずに二時間半後にはもう我が家にいました。

 それでも出かけてみれば一人でも結構楽しかったし元気もでました。

 暑さ寒さも彼岸まで、春がそこまでやってきました。





 

 

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夕暮れのわが街に雪が舞う [エッセイ]

 全国的な寒波襲来というのに東京は気温十六度、陽の光さえみえます。

それでも羽田空港でバスを降りた時、その風の強さにびっくりしました。

 北の方の便は遅れやら欠航やらの表示が見えたけれど、私は何の心配もなく

機中の人となりました。

 誕生日はみんなで祝うからという子供らの言葉も聞かず予定通りの帰宅です。

 ところが飛行機が滑走路に出たものの順番待ちとかで、かなり遅れました。

飛ぶ前に向かい風が強いのでかなり揺れ、定刻より遅れる予想だとアナウンスが

ありました。

 少し風邪気味で体調イマイチだった私は、やれやれと思ったものの仕方なし。

 やっと離陸すると本当によく揺れました。怖いほどでもないのだけどあまり

気持ちのいいものではありません。

 当地での着陸は普通は海側からはいるのに、今回は山側から降りたのでやっぱり

風はかなり吹いていたのでしょう。

 ふと窓から外を覗くと暮れなずむわが街には雪が舞っているではありませんか。

 タクシーの運転手さんが

「寒いでしょう。このところ六、七度なんですよ。雪が積もっている町もあるんですよ」

と教えてくれました。

 
 三週間ぶりの我が家は森閑として、雪は降っていませんでした。

 部屋に明かりをつけて暖房して、こたつに潜り込んで、暑いお茶をのみました。

 急に寂しさがこみあげてきました。鼻水が出て体がだるくて、やっぱり普通でない。

 ご近所にご挨拶にいくのもおっくうで帰って来たことだけ電話で伝えました。

 「楽しかった東京だけど、なんか疲れた。だって家にいる時より動くもんね。みんな

元気で頑張っていたよ」

 彼にはちゃんと報告をしました。

 テーブルの上には年賀状わ始めとする郵便物があり、部屋に入れた鉢植えもみんな

元気で新年を迎えたようです。時々留守宅を見にきてくれる弟夫婦にも電話しました。

 夜になるといよいよ本格的風邪症状、空港で買ってきた「京都巻き」はとても美味し

買ったので全部食べたし、お風呂だけはやめにしました。

 よるかかって来た娘からの電話では風邪の話はしませんでした。

 あれから六日もたって、時々雪のちらつくわが街、病院へ行くよりはと家に篭って

いたけれど、風邪は私が好きらしい。

 今日はやって来た弟たちとスーパーで美味しいもの沢山買ってきました。

 次の土曜日まででかける予定もないので養生します。

 明日からは少し暖かくなると聞いて、冬枯れの庭に優しくさいている水仙にやっと

気がつきました。

  冬来たりなば 春遠からじ 

  





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青春 人生花の時 回想  2 [エッセイ]

  三人娘もいつしか人生のうちで一番大変だけれど、そう花の時を迎えました。

それぞれ結婚して、家庭の事情は違っても一生懸命に生きていました。

私とМさんは当地に留まりHさんは遠く首都圏に居を構えました。子供も同学年で

二人づつ申合わせたようだと三人で笑いました。

 同じ街に住む私とМさんは幼稚園までは同じで、暇を見つけてはお互いの家を行き来

して、子育ての話などいい相談相手でした。

遠くのHさんとはたまに手紙のやり取りはあっても、会うことはできませんでした。

 高度成長期の日本の国がどんどんと発展し世界に進出していた頃でした。

 家庭の事情は違ってもそれなりに頑張って、私とHさんは下の子供が中学生になった時

 フルタイムの仕事に就きました。

それからは本当によく働きました。二人の子供が大学を出るまでの間、三人とも必死でした。

 人生花の時とは言いながら、三人で会ったのは数回で十余年の月日が流れていました。

ある時誰からともなく、私たち随分頑張って考えてみたらもう人生折り返し地点は過ぎたよ。

 この辺でまた昔に戻って三人旅の続きをしょうじゃないの、ということになりました。

そうなるとまあ実行に移すこと早い早い。旅の計画と旅行記は私の担当。写真はHさん

 社交家のМさんが、タクシードライバーさんや宿の女将さんの話相手です。


 そして三人旅第一回は若き日に三人で初めて旅した思い出の京都からと決まりました。


 それから毎年一回三人で二泊三日の旅はつづきました。

 木曽路妻籠から馬籠まで歩きました。恵那峡の赤い大橋がホテルからよく見えました。

 六甲山の山頂美しい夜景を堪能した半年後阪神大震災がありました。忘れられない旅でした。

 妙義山から、小諸 千曲川、軽井沢など憧れの信濃路はなんと素晴らしく人生観が変わった

くらいの感動でした。

 関西空港で待ち合わせ和歌山城から白浜、熊野古道を少し歩いて熊野本宮に参拝。

 奥の細道の雰囲気を味いたいと山中温泉、那谷寺、永平寺東尋坊から気比の松原まで。

 Tシャツにパンツで颯爽と自転車で巡った飛鳥路。


 合計七回、十回目はハワイ。などと楽しみにしていた矢先Мさんの病気がわかりました。

 残念でしたが、三人旅はここまで。

 一年頑張ったМさんが元気になり、二年過ぎた時、このままでは寂しい、旅の打ち上げを

しょうということになり、富士五湖へ、それぞれ違う姿の富士山に歓声をあげつつタクシーで

湖を巡りました。元気になったМさんと三人本当に楽しい旅でした。

 結構費用もかかったし、家も空ける主婦の旅、理解ある旦那様でよかったと感謝の気持ちを

毎日の生活でお返ししようと旅の終わりの夜三人で話したものです。


 あれから又十数年経ちました。先日Hさんのお兄さんが亡くなられHさんが実家へ帰って

きました。

 三人揃うのは何年ぶりかしら。食事をしてお茶を飲んで、話に花が咲きました。

中でもやっぱりあの楽しかった旅の話が....時間がいくらあっても足りません。

 私とHさんは一人になってしまったけれど、元気に明るくこれからも前を向いて行こうと

この友情を大切にと、しっかり手をとって誓いました。


 師走、新年私とHさんは東京で毎日でもデートしようと秘かに企んでいます。


 




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青春 人生花の時 そして回想 1 [エッセイ]

 私には中学二年から今に続く親愛なる友が二人います。自称三人娘?

結婚するまで働く職場は違っても、いつも行動を共にしていました。

 三人とも旅が好きで、年一回は二泊三日の旅を、季節ごとに花見、紅葉狩り

島巡り、時には凍った滝を震えながら見に行ったこともありました。

 そのころのエピソードで三人揃うと必ず出る話。

私は長女、Мさんは二人姉妹の姉、そしてHさんは末っ子。

 そのころ仕事が終わると誘い合わせてよく喫茶店に行きました。四十円の

コーヒー一杯で二時間はねばりました。

 映画や音楽の話、洋服や靴やバックなどを買う計画、職場のこと、話題は

尽きることはありません。

 そしていつか、いつも一緒に居たいという願望から、三人で暮らしたいと

思うようになりました。

 そこから夢のような話が具体的になり、そのころ出来たばかりの薄いピンクの

三階建てのアパートで同居しようということになりました。

 それから家賃はどうする、生活費は、家具は、カーテンは、三人の家事の分担はと

それぞれの家や、昼休みの公園で着々と計画は進んでいきました。

本当に嬉しくて楽しくて。 幸せいっぱい夢心地でした。

 そしてとうとう今夜はそれぞれの親の許可をもらって来るところまで漕ぎつけました。

 その夜私は得意満面、とうとうと私たちの計画を父母に話しました。

父が言いました。

 「貴女はこの家が嫌なのか、祖父母や弟妹たちとこんなに楽しく暮らしていると

いうのに。何か不満でもあるのかな。豊ではないけれど暖かくいい家庭だと私は

思うんだがなあ。」

 私は父の顔を真っすぐに見ました。笑っている優しい目の奥に厳しいもう一つの

目を見たような気がしました。

 私は何にも言えませんでした。照れ隠しに少し笑っていとも簡単にこの話を引っ込め

ました。

 翌日冴えない顔の三人が喫茶店に揃いました。

 Мさんはまず母親に話したら、全然本気で聞いてくれなくて

「お父さんには黙っていてあげるから馬鹿なこと考えるのは止めなさい。」

と軽くあしらわれたとべそをかいていました。

 Fさんはどうしても話出せなくて、一晩中もんもんとしたと。

 三人は顔を見合わせて笑ってしまいました。考えてみれば本当に他愛ない話で何故

あれほど熱中して夢のような夢を見たのだろうかと、少し恥ずかしい気さえしました。

 「机上の空論」まさしくそのもの。でもあんなに楽しいひと時はなかったと半世紀

以上過ぎた今も、三人寄るとこの話は必ず出て大笑いになるのです。

 
 恋をしたり、失恋したり、私以外は花嫁修業にも精出して結婚するまでの数年間は

本当に楽しく逞しく青春を謳歌した三人でした。

 

 




 




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