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平成シニア物語  葉桜の頃 [平成シニア物語]


 外に出ると広場にある桜の花びらが降るように落ちて来た。「春真っ盛りだ
わ」つぶやいて紅子は青い空を見上げた。
 今日は市のシルバーコーラスの、今年度初めての練習日だ。一緒に出てき
た仲間も大きな声で歌ったので、みんなすっきりした顔をしている。これから気
の合ったもの同士でお茶を飲みに行くのが、ここに来るもう一つの楽しみでも
あった。
 紅子がここに参加してもう三年経ったが、彼女はまだ気の合う友を見つける
ことが出来ないでいた。終わったら真っ直ぐ家に帰る。そこには季節を問わず
六時には食卓に着く夫の達郎が待っている。
 でも今日は達郎に頼まれた本を買うために書店に寄るつもりだった。
「速水さん」と声がして誰かが近付いて来た。振り向くとコーラスで一緒の沢野
が笑っている。「今日は真っ直ぐ帰らないのですか。」どうやら紅子が、お茶を
一緒しないことは仲間内で「変わり者だ。」と噂になっているようだ。「ええ今日
はちょっと本屋さんまで。」「ああ丁度良かった僕もいまから行くところです。一
緒に行きましょう。」沢野は半ば強引に並んで歩きだした。
 コーラスは三十人くらいなので、いつかお互い名前くらいは覚えていた。
 沢野は退職した二年ばかり前に参加した。歌が上手くて皆にも人気があった。
しかし紅子は話したこともなかった。「速水さんご家族は?」沢野が聞いた。「子
供達は家を出ていますので、今は主人と二人です」紅子が応えると「ああわが
家と同じですね。今はもうみんなそうなるのかなあ。僕の住んでいるところも皆
そうだし、少し年代が上のご夫婦では老老介護で大変ですよ。何だか自分の
行く末を見ているようで、時には考え込んでしまいますよ。」そう言って沢野は
大きな溜息をひとつついた。「本当にそうですね。」応えながら紅子も隣近所の
様子を思い浮かべた。
 書店の入り口で別れて、用事を済ませた紅子が外に出ると沢野がまっていた。
驚く紅子に「速水さん次の練習日、お茶でも飲みにいきませんか。何だか貴女
と話がしてみていんです。」沢野は早口でそれだけ言うと紅子の返事も待たず
に帰っていった。
 紅子はバス停に向かって歩きながら、おかしな人!と沢野のことを思ったが別
に嫌な感じはしなかった。話ったって私たちにコーラス以外の話題などあるだろ
うかと思った。
 その日紅子は夕食の時達郎に沢野の話をしょうかと一瞬思ったのだが止めた。
達郎は自分に関係のない話は嫌いなのだ。というより無口で静かな彼は、お喋
りの紅子に辟易していたと言うべきかもしれない。だから余程のことがないかぎり
二人で話が弾むことなどなかった。たまに盛り上がっても、紅子が調子にのると
最後はいつもたしなめられた。
 これは今更のことではなく若い時からそうだった。だがどことなく気が合ってお
互いに絶対この人だと思って結婚した。そして今でも仲のいい夫婦だと思ってい
た。
 次のコーラスの日、紅子は今日は少し遅くなると言って家をでた。紅子はなんと
なく浮き浮きしている自分をいぶかりながらも、沢野はあの日の約束を覚えてい
るだろうかとふと思った。
 部屋に入ると固まって座っている男性陣の中に沢野を見つけて少しほっとした。
 二時間ほどの練習が終わって出て来ると、入り口で沢野が待っていた。そして
今日は!と明るく言って「速水さん僕がよく行くお店でいいですか。そちらのお気に
入りの所があれば、僕はどこでもいいですよ。」沢野は紅子が行くのは当然とい
う口ぶりで聞いた。覚えていたんだ。「いいえ別にありませんから。」紅子はそう
言いつつ沢野の隣に並んで歩いた。
 十分ほど歩くと大通りの裏手の通りに面した小さい店があった。ドアを開けると
カウンターの中にいた店主らしい女性に、沢野は軽く手を上げて慣れた様子で
一番奥の席に紅子を案内した。しっとりした照明と、通路に置いた観葉植物の緑
がうまく調和していい感じだ。
「コーヒーでいいですか。ケーキはモンブラン。」と聞く沢野に「ええ」とうなづきな
がら紅子は少し驚いた。夫もコーヒー好きでケーキはいつもモンブランだった。
 若い時はふたりでよく行ったものだ。しかしもう何年も喫茶店なんぞに二人で
行ったことはなかった。
 三、四人の客がいた。「いいお店ですね。」「ええ、ここ僕の古くからの友人の
店なんです。三年前に彼が亡くなって、今は奥さんが一人でやっているんです」
ふと紅子はさっきの二人の挨拶を納得した。コーヒーを持ってきた女性は「ごゆ
っくり」と紅子に優しい目で微笑んでちらりと沢野に視線を移した。紅子より随分
若く見えた。沢野はコーヒーを一口飲むと「速水さんと話したいこといっぱいある
ような気がしていたのに、こうして目の前にいるとさて....何から...と思ってしまい
ますよ。」と困った表情をした。紅子にだってこれという話題なんてない。
「そうだ、もしかして僕は速水さんと一緒にいたかっただけかもしれないなあ。」
沢野はそう言ってまっすぐ紅子をみた。紅子は少しうろたえて、深い考えもなく
彼に誘われるままここに来たことを後悔し始めていた。
「今日ご主人は?」「多分どこかに出かけているでしょう。写真を撮ったり絵を描
いたりするのが好きですから。」「いい趣味をお持ちなんですね。僕はここに来
る外は、もっぱらテレビみながらごろごろしていて、いつも家内に嫌がられてい
るんですよ。男って無職になるとやることが何もないんです。」
 紅子は少しがっかりした。私たちお互いの家庭のことなど話合って、何して
いるんだろう。コーラスのこと以外共通の話題がないのだから、当たり前かも
しれないけれど、沢野に誘われた時自分は一体何を期待していたのだろう。
彼のこと何も知らない、人柄さえも何ひとつわかってないのに。
 あまり話も弾まないまま時が過ぎ、店主が黙ってこぶ茶を置いて行ったのを
機に紅子は立ちあがった。「ご馳走様でした。そろそろ帰りませんか。」沢野も
「そうですね。今日はよかった」と自分に言い聞かせるように頷いて席を立った。
 店の外まで出て来た沢野は「有難うございました。僕は楽しかったですよ。も
っと速水さんのこと知りたくなりました。次の練習日にもここに来ましょう。と明
るく言った。「僕もう少しここにいますので。」
 紅子は言葉もなくただ深々とあたまを下げて歩きだした。
 今紅子の胸にある得体のしれないわだかまりは、どんどん大きく広がって
彼女をこの上もなく憂鬱にさせた。そして紅子は自分自身に一番腹を立てて
いた。
 少し傾いた陽の光が、葉桜の木の間から零れ落ちる舗道を゛紅子は唇をか
みしめながら、うつむいてのろのろと歩いた。

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平成シニア物語  早春賦 終章 [平成シニア物語]

 そんなある日久し振りに香織から手紙が来た。珍しく花柄の封筒にきれいな
記念切手が貼ってある。
 「葉子さんお変わりありませんか」いつもと同じきれいな文字。でもあれっと
葉子は思った、。いつもは夫のことを主人が....と書いてあるのに今日初めて
宏人さんと書いてある。
「出勤する朝そっと上着を着せかけてあげる、そんな時これが妻の幸せなんだ
と思うのです。前には煩わしかった宏人さんのためのあれこれが、この頃では
嬉しい私の日課になりました。」
 葉子は思わず天を仰いだ。どういうこと? まだ独身で恋人もいない葉子には
香織の心境の変化をとても理解出来なかった。
 しかし少し落ち着いてくると、とにかくこれでいいのだと思った。二人の愛に
理屈なんかいらない。結ばれ方など関係ない、これからが大切なのだ。今が
幸せならそれが一番いい。香織はやっと好い妻になれた。葉子には想像する
ことも出来ないほどの、心の葛藤があったと思うのに賢い香織は見事に立ち
あがってみせた。
 葉子は自分の心の中に閉ざされ、わだかまっていた冷たい氷が融けていく
ような、この嬉しい気持ちを今すぐに香織に伝えたいとペンをとった。


 陽が落ちると三月とはいっても底冷えがする。香織は今夜は宏人の好きな
水炊きにした。湯気の向こうに見える彼は満足げに箸をのばしている。食事
が終わると宏人がおもむろに大きな茶封筒を香織の前に差し出した。「何か
しら」「開けてみて。この前から描いていたんだけど誕生日に間に合わなくて、
やっと出来たんだ。遅くなったけど一応プレゼント」宏人は照れくさそうに笑っ
た。 香織が取り出した一枚の絵、そこには少し笑ったうつむき加減の香織
の顔が鉛筆一本で見事に描かれていた。「有難う嬉しい、好い絵ね、でも私
こんなに若いかなあ」彼女は弾んだ声でお礼を言った。
 宏人は絵が得意で元気な時はよく油絵を描いていた。病気をしてからは絵
筆を持つこともなかったのに、少し不自由になった手で香織には内緒で、デ
イサービスに行く度に少しづつ描いてくれたのだと思うと、宏人の優しさが嬉
しかった。
 その夜床についても香織はなかなか寝付かれなかった。色々なことがあっ
たけれど宏人と歩いた五十年の年月、自分は幸せだったと思う。でもこれか
ら先の月日は確実に短く二人は老いていくのだ。どんなことがあっても頑張
ってこ、れまでののようにしっかりと二人で幸せな人生を全うしよう。
 
 葉子から手紙が来た。二人の友情は彼女が結婚してからも続いていて、
逢うのは数年に一回だったが家族ぐるみの付き合いをしてきた。

 香織元気ですか。わが家もみなそれぞれの生活に頑張っています。
突然ですが次の日曜日逢えそうです。急にそちらに用事が出来て少しなら
時間が取れそうなので絶対に逢いたい。取り急ぎお知らせを。まあ電話や
メールなど早く知らせる手段はあるけれど、ふと昔を思い出して手紙を書い
てみたくなリました。
昔はこれしかなかったもの。お互いよく書いたね。
 そうそう私ね、この間夢を見たの。えっどんな夢かって、それは内緒です。
でも若かりし頃の香織の夢です。嬉しいなあ。一年振りだよね。その日青い
空が見えたらいいね。                            葉子

 香織は庭に出て空を見た。
春をそこまで連れて来ているような淡い青い色の空に、若い日のあの明る
い葉子と、ちょっとすました香織の顔が並んで笑っているのが見えたような
気がした。吹く風が心地よく香織を包んだ。
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平成シニア物語 早春賦  1 [平成シニア物語]

デイサービスの車が見えなくなると、香織はふーとひとつ大きな息をはいた。
 立春を過ぎた空の色は青く透き通り、風は少し冷たいけれど、すぐ近くの
雑木林にそそぐ陽の光は、心なしか暖かくなった感じがする。
 夫の宏人は脳梗塞を患ってから、日常生活に支障はなかったが、何でも
一人でテキパキという訳にはいかなくなった。その上八十近くなって物忘れ
もひどくなった。あれほど聡明で、理論的なものの考え方をする方だった彼
のこんな様子に、初め香織は心を痛めていた。しかし本を読んだり、人の
話を聞いたりして、このくらいは年相応だと分かってからは、素直に現状を
受け入れ出来る限り、宏人に寄り添った。
 そしてやっと昨年の秋「絶対に嫌だ」と言っていた宏人がデイサービスに
行ってくれるようになり、香織にも少し心身ともにゆとりが出来た。
 今日は午後から少し遠くのスーパーまで足を延ばした。買い物を済ませ
お気に入りの小さなカフェで、一人コーヒーを飲む。これがささやかな香織
の楽しみでもあった。
 家に帰ると宏人が帰る時間まであと数時間はあった。
香織はリビングのソファにこしを下ろした。少し西に傾いた陽射しが窓越しに
入り込んでくる。ふと棚に目をやった香織は、そこに飾ってある写真を手に
とった。昨年子供たちが香織と宏人の金婚式を祝って撮ってくれたものだ。
 娘夫婦と孫二人が香織と宏人の両側に寄り添って、みんな楽しそうに笑っ
ている。香織は改めて宏人の嬉しそうな顔に見入った。
 私はこの人と五十年も一緒に生きて来たのだ。この満足そうな彼の顔。
私はどうだったろう。と香織は思った。
 その時突然、胸の奥底の方が波立ち、熱いものがこみあげて来た。
香織は自分の感情に気づきたくなくて、急いで目をつぶった。
 しかしその眼裏にあの人は鮮やかに現れた。
浅黒い顔、笑っているようで決して笑ってない澄んだ目。固く結んだ口元、広
い額に少しかかった髪の毛。香織にはそのどれもが忘れられない、彼女の
一番好きなあの人の表情だった。
 香織は動転した。もうあの人のことは、とうに忘れていたはずだった。実際
ここ何十年も思いだしたことはなかった。


 遠い昔香織はあの人に恋をした。物静かで大人しい彼女のどこに、あれほ
どのエネルギーが潜んでいたのか。ただ一途にあの人が好きだった。そして
あの人も香織の想いに応えてくれた。幸せになるはずだった。
 しかし二人の恋は、一年の後、あの人が突然別の女性と結婚すると言った
時に終わった。何がどうなったのか、その時の香織には考える力もなかった。
 彼女はその悲しみを一人で抱え込み、一人で耐えた。決してあの人をなじる
ことはしなかった。
 この理不尽な恋の顛末を知って香織の親友の葉子は、黙っていることはな
いとあの人の不実を責め、本当に彼のことが好きなら、もう一回話し合いをす
るように説得したが、香織は悲しい目で首を横に振った。
 半年の後香織は自分の足でしっかりと立ちあがった。そして親に勧められる
ままに宏人と見合いをした。何もかもを、大きな心で包み込んでくれるような彼
の優しい目が、今の香織には救いであった。
 離れて住んでいた二人は結婚までに三度会っただけだった。
 葉子は香織と最後にあった時、この結婚についてとても理解することが出来
ない、まして祝福なんて....と強い口調で責めたが、香織が低い声で言った一言
に絶句した。「私、結婚相手は誰でもよかったの」
 結婚式の日の美しい香織の白無垢姿を、そして優しくて悲しそうな目を葉子
は心が凍る思いで見つめた。
 それから一カ月ほどして葉子は香織の手紙を受け取った。そこには今度の
彼の宿直の時、是非泊まりがけで遊びに来てほしい。そして私の新しい家庭を
見て欲しいと書いてあった。
 葉子は今までの胸のつかえが下りたような気持ちになり、二つ返事でОKした。
 香織の新居は新しいアパートで、窓にかかったピンクのカーテンとテーブルに
飾られた、赤と黄色のチューリップの花がいかにも新婚らしくて微笑ましかった。
 二人は街を歩いたり、お茶を飲んだり、夜も寝ないで語り明かした。
 葉子は香織が思っていたよりずっと明るくて、若奥様ぶりが板についているの
を目の当たりにしてほっと胸をなでおろした。
 次の日の朝、二人で朝食の準備をしている時、「私このお味噌汁、あの人の
為に作っているのなら、どんなに好いだろう。」と香織が小さい声で呟くのを聞い
た葉子は耳を疑った。そして大粒の涙をぽろぽろこぼしている香織の顔をただ
呆然と見詰めた。どうしてもかける言葉はなかった。
 それでも葉子を駅まで送ってくれた香織は、朝のことなど忘れたように、にこに
こと又きてねと手を振った。
 その後も葉子はずっとあの日の香織の言葉を忘れることが出来ずに心を痛め
ていた。
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平成シニア物語  たそがれ [平成シニア物語]

 梓は肩に散りかかる落ち葉を気にも留めず丘の上に立って、遥かな灰色の
動かない海を見ていた。
じっと海を見ていると、また寂しさがこみあげて来て、もう一度夫久志の墓前に
ひざまずいた。
 「貴方が逝ってもう五年も過ぎました。私も年をとってしまいました。」梓は
小さな声で語りかけた。
辺りに人影はなく、冬の初めの風はまだ冷たいという程ではなくて、一人で久志
を偲ぶ梓の気持ちに寄り添うようであった。


 梓はもう忘れるほどの昔、職場で初めて会った久志に一目で恋をした。
ハンサムでもなく無口で、人当たりもあまり良くない彼のどこが良かったのか。
でもテキパキと仕事をこなす久志の回りには、いつも暖かい空気が流れていた
ような気がする。
 梓は猛然と自分の恋を全うした。してはならない恋だった。
 三歳年上の久志にはすでに妻も娘もいた。
 しかし梓にとって、そんなことは何の障害にもならなかった。彼女は明るい男
のようなさっぱりした気性で、周りの誰も梓がこんな熱烈な恋をする女性とは、
思ってもみなかった。
 動揺し悩み、心身ともに疲れ果てて、ただただ虚ろにその日を過ごしている
だけのような久志を、梓は励まし続け、彼の妻を説得し、久志の離婚が成立して
から一年後二人は結婚した。
 数年経っても梓は子供には恵まれなかったが、最愛の人を得た喜びの方が
大きくて、そのことはあまり苦にならなかった。
 久志は一時は自分を見失う程の葛藤の中にいたが、梓の優しさにいつしか
新しい生活に馴染んで、二人はずっと仕事を続けた。
 そのうち久志の娘の藍子が中学生になった頃、時々遊びに来るようになった。
 梓は久志が離婚を決めたの時、妻の里子に、非常識な自分の行動を許して
欲しいと謝った。そして勝手なこととは承知の上で、いつか久志父娘がお互い
に、会いたいと思うようになった時には会わせて欲しい。それだけは約束して
欲しいと懇願した。
 里子は憤りと悲しさで、どうにかなりそうな頭で、将来藍子がこの無責任な父
に、会いたいなどと思うことは絶対にないとぼんやり考え、その申し出を承諾
した。
 藍子は愛らしい素直な娘に成長して、梓のことを「おばちゃん」と呼びよくなつ
いたので、梓もつい可愛くて欲しい物を買って上げたりした。藍子が里子から
父のことを、どういうふうに説明されているかは分からなかったが、久志のこと
を一度も「お父さん」とは呼ばなかった。
 藍子が大学生になって、この街を離れてからは、もう姿を見せることもなく、
長い長い時が流れた。その間久志と梓の間で藍子のことが話題になることも
なかった。
 久志は定年になると、前から好きだった園芸を本格的に始め、特に菊作りに
は力を入れた。朝早くから黙々と作業に励み、秋には色とりどりの見事な菊の
花を咲かせた。二、三年もするとコンクールで金賞を取るほどの腕前になった。
 梓も若い時から続けていた茶道に忙しく、二人が言葉を交わすのは食事の
時くらいで、そんな時でも無口な久志から話しかけることはまずなかった。
 陽だまりの庭で作業をしている久志の様子を、リビングのガラス戸越しにみ
ながら梓は時々思った。この人に何で私はあんなに激しい恋をしたのだろう。
人の夫を奪ってまで結婚して。それでよかったのだろうか。そんなに彼を愛して
いたのだろうか.....。考えあぐねると梓はいつもふっふっと笑って自分の思いか
ら逃れていたように思う。
 それでも好い季節になって、お互いにぽっと空いた時間が出来ると、二人は
よく旅をした。リュックを背負って汽車に飛び乗った。美術館巡りやきれいな寺
の庭を見たり温泉に入ったり、たいていは一泊か二泊の小さな旅だったが、そ
んな時は久志もよく笑うし、よく喋って楽しげで、梓はやっぱり私たち仲のいい
夫婦なんだと、改めて思ったりした。

 時が行き二人が七十代にさしかかった頃から、久志が腰を痛めたのを始め
に、次々とあちこちが悪くなり二人とも家にこもりがちになった。
 料理の得意な梓が作る食事だけが、ほっと心安らぐふたりの楽しみになった。
 そんなある日、音信不通だった藍子がひょっこり訪ねて来た。昔彼女が遊び
に来ていた頃と、同じ年くらいの女の子を連れていた。
「おじいちゃんだよ」すっかり年を取り病でやつれた久志の細い手を優しくとった
藍子は、女の子の手をその手に重ね、その上に自分の手をそっと置いた。
 久志の小さくなって白濁した目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
 その様子を見た時、梓は初めて自分の犯した罪の深さを思い知った。
そこには誰にも踏み込むことの出来ない、確かな親子の絆があった。
 いくら梓がもがいても、口惜がっても後悔しても、どうすることも出来ない父と
娘だけの、優しい安らかな場所があった。
 その夜一人になった時梓は、何があろうと自分の久志への思いだけは真実
だったと、しっかり自分に言い聞かせた。
 それから二カ月後、久志は安らかに旅立った。
その日梓は生ある限り、しっかり自分の足で一人で歩いて行こう。と決心した。
月日が経ち、ともするとくず折れそうになる体を自分で引き起こし、前を見つめ
て今日まで歩いてきたつもりだった。

 遠くで船の汽笛を聞いたような気がして、梓は我に返った。
傾きかけた夕陽が、灰色の海を少し茜に染めて、梓がたたずむ丘は静かな
暮色のなかにあった。
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平成シニア物語  ゆく秋に [平成シニア物語]


 要三と綾、二人が職場結婚してもうすぐ三十五年になる。
 結婚に積極的だったのは要三の方で、若い時の綾の美しさは、職場でも
目立っていた。
 同期や後輩が次々に結婚して退職していく中で、まわりの予想とは違って
綾は恋愛をすることもなく年を重ねて二十八歳の時、要三の熱望にとうとう
結婚した。
 綾は大人しい性格だったが、芯はしっかりしていて笑顔の蔭に、時折人を
寄せ付けない冷たさが顔を出すこともあった。要三はそのことに気がついて
いてふとよぎる得体の知れないそういう不安な感情から目をそらせていてこ
とは確かだ。
 当時は結婚して子供が出来たら、退職するのが常だったが二人は頑張った。
 二人の子供を育て家も建てた。どんな時にも弱音を吐かず、仕事も家事も
一生懸命の綾を、要三も精一杯支えて来た。
 下の子供が独立して家を出た十年ほど前に一度、要三は綾に仕事を止め
て、少し自分のやりたいことでもやったら......と持ちかけた。
 共働きはどうしても女性の負担が多くなるし、生活にも多少余裕が出来た
今、それは要三の妻へのいたわりと感謝の気持ちだったがー。
その時綾はためらうことなく、即座に仕事を続けたいと言い切った。綾の中
に仕事に対する愛着があった訳でもなく、仕事を止めてまでやりたいことが
有るわけでもなかった。ただこれからの日々、要三との生活がすべてになる
のは嫌だ....と思った。
 経済的にもゆとりが出来るし、老後のことを考えると、綾の判断が間違って
いるとも思えなかった要三は、綾がよければそれもいいと思った。
 
 定年退職してからの綾は、六十歳にして初めて知った自由を満喫している
ように見えた。堰を切ったように茶道や華道を始め、公民館の写真教室や、
コーラスにも顔を出して、今までとは全く違った交友関係も生れて、要三の
知らない人からの電話もよく架かって来た。
 最初の頃要三は水を得た魚のように、毎日を生き生きと過ごしている綾を
頼もしくさえ思っていた。しかし毎日綾が出かけてしまうと家の中はしんとし
て、夜も帰りが遅くなると、要三はテレビを見ながら一人で食事をすることが
多くなった。そんな時の何だか寂しい気持ちは彼の想像以上のものだった。
要三にも飲み友達や、ゴルフ仲間はそれなりにいた。
 しかし伴侶とはそういう人たちとは全く別の存在ではないのか。子供が巣立
って、夫婦だけになった時の生活がこんな味気ないものでいい筈はない。
 二人で築いた家庭、育てた子供たち、二人だけの歴史はこれからも続いて
いくし、それは今老境に入った二人にとって暖かくて大切なものではないの
だろうか。要三は考え続けた。
 要三と綾、今二人は一つ家に居るというだけで、全く心の交流が無かった。
要三は綾の考えていることが皆目分からなかった。生活に必要な話はする。
しかし綾が今何処で何をしているか、出かけるときに聞けば応えたのだろうが
いちいち聞くのもなんだか詮索しているようで、つい口をつぐんで来た。
 要三にも綾に対する昔のような情熱はもうないのかも知れない。しかし夫と
妻だけの大切なもの、それは永遠に消えるものではないと彼は思いたかった。
 綾はどう思っているのだろう。珍しく一緒に食事をした夜要三は聞いてみた。
「なあ綾さん、この頃一緒に食事することが少なくなったと思わないか。あんな
に仕事や育児で忙しかった時でも、家族そろってわいわい賑やかに食べてい
てのに。」
「そう言えばそうねえ、子供がいたから放っておけなかったのかなあ」綾は遠く
を見る目で呟いた。
「要さん寂しいんだ....」
その様子に要三はが彼が考えている程、綾は今の生活を不自然だとは思って
ないのだと思うと、何だか背中の辺りがうすら寒かった。
「そうねえ、じゃあこれからお互いに気をつけて出来るだけ一緒にご飯食べま
しょう。」綾は明るい声でそう言うと、何事もなかったように後片づけを始めた。

 綾はこの頃一人でいる時や、友人と趣味の時間を過ごしている時、なんとも
言えない解放感に満たされていた。
 別に要三が嫌になった訳ではない。けれど好きでもない。今更.....と思うのだ
が、考えてみれば結婚してから今日まで、一度も要三のことを愛しく思ったこと
はなかったような気がする。
 望まれて結婚して、二人で頑張って来た三十五年、綾は人並みの人生が送
れたと思っている。だから要三には感謝しているし、今の生活に不満もない。
 これから先の人生、終わるまで彼と一緒に歩いて行きたいと思っている。

 そんな人生寂しいよ。今からだって遅くはない、要三の好いところ見つけて
二人でそれを大切に守る穏やかな人生を送ったらどう? 。幸い要三はその気
満々、きっと綾の気持ちに応えてくれる。今貴女が努力しなくてどうするの、もう
長くはない人生、暖かく安らかな気持ちで終わりたいでしょう。

 もうひとりの綾が、耳元で囁き続けた。

 銀杏の美しい山の寺へ行って見ようと誘ったのは要三だった。銀杏の落ち葉
が参道を埋め尽くして辺りが明るく感じられた。
 要三と綾は並んで歩きながら、それぞれの思いに耽っていた。
 銀杏の木が晩秋の青い空を突き抜けるように伸びて、はらはらと散る金色の
落ち葉が、一入陽に映えて美しい。
 「銀杏の葉があんなに散っている、きれいね要さん」綾は自分の声がなんとな
く、優しいのに気がついて少しうろたえた。
「もうすぐ本堂だ、少し坂道だけど大丈夫かい。」要三がさりげなく歩をゆるめた。
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平成シニア物語  通り雨 [平成シニア物語]


 夜桜見物の人たちでざわめく公園を横切って、電車通りに出たところで若菜は
ほっと小さく息をはいた。
 還暦を迎えて開かれた高校の同期会は、久し振りのこととて故郷の街へ大勢
の友が帰ってきて盛会だった。
そのまま会場をホテルのバーに移して、二次会が始まるようだったが飲めない
若菜は一人で帰途についた。
 九時過ぎだと思うのに電車は満員で、若菜は端の方にやっと腰かけて、目を
向かいの席にやった時あっと声を上げそうになった。吾朗だ。彼も同時に気が
ついたようで、思わず二人は頭を下げた。
 吾朗は二次会に行かなかったのか.....、それにしても彼はどこへ行くのだろう。
電車が止まる度に人が乗ってきて、お互いの姿を遮ってしまった。
若菜が電車を降りようとして席を立った時、前の席に吾朗の姿は見えなかった。
挨拶くらいはしたかったのにと思いつつ、駅を出て歩き出した時すっと人影が
若菜の前に立った。吾朗が目の前で笑っていた。
 「あらためてこんばんは」彼はおどけたように言ってペコリと頭を下げた。
「ああびっくりしたわ、どうしてここに」「勿論若菜君ともう少し一緒にいたかった
から」「冗談ばっかり」駅前のロータリーで二人は声を合わせて笑った。
 会場で二十年振りに会った時は、お互い年を重ねたなあ、と思いつつ、元気
ですか、と挨拶を交わしただけだった。
 若菜と吾朗は高校生の時、ほのかに想いを寄せ合っていた。でも黙ってさよ
ならしてしまった。
 吾朗は東京の大学を卒業して、そのまま帰ることはなかったし、若菜は地元
の短大に進んだので、この前の同期会で再会するまで音信も途絶えていた。
 二十数年ぶりに会った時、若菜には夫と二人の子供がいたし、吾朗も結婚
していた。
 「あれから十八年振りなんだってね。」吾朗が感慨深げに言う。「よかったら
その辺でお茶でも飲まないか」
 もうここから若菜の家まではタクシーで十分くらいで、少々遅くなっても大丈
夫だと若菜は思った。
「ええすぐそこに素敵なお店があるのよ」二人は連れ立って喫茶店に向かった。
 若菜の脳裏に一瞬、あの四十数年前の切ない想いが甦った。
 恋というほどのものでなかったとしても、図書館で一緒に本を読んだり、郊外
の森へ植物採集に出掛けたりした日々の思い出が、若かった二人の姿に重な
って、若菜の胸を少しだけ熱くさせた。
 店内は照明も明るくて数人の人がいた。二人は窓際のゆったりした椅子に
腰を下ろした。
「若菜君はとても若くて、この前あってからあまり変わってないなあ。」少しお酒
の入っている吾朗はうっとりとして目で若菜に言った。
「止めて下さい。私たち同級生で、それに私もう小学生の孫がいるんですから」
若菜は悪戯っぽく笑う。
「そうなんだ、僕が白髪頭になるはずだよなあ」と吾朗はまじまじと若菜の顔を
見つめた。
 吾朗は今日若菜に会った時からこのまま別れたくない思いがあった。ただの
懐かしさだけではない何かが、彼の背中を押した。
だから若菜が二次会に出ないのを見届けてから先に会場を出た。
 電車に乗るはずの若菜を待って、同じ電車に乗った。だから「若菜ともう少し
一緒にいたかったから」という吾朗の言葉に嘘はなかった。
 彼は商社に勤めているが定年になったら、故郷に帰りたいと考えていたが・
その思いは東京がいいと言う妻子によって一蹴された。
 吾朗が故郷を思う時、いつも高校生の若菜がいた。肩までの髪を三つ編みに
して水色のリボンで結んでいた。笑顔が愛らしかった。
 この前の同期会で卒業以来初めて会った若菜は、彼の想像以上の素敵な女
性になって吾朗の前に現れた。
 でもあの時は忙しい仕事を調整しての日帰りで同期会に出ていたので、吾朗
の気持ちの中に余裕もなかった。何故か二人で家族の話などしたような記憶
だけが残っていた。
 「吾朗君今仕事は?」若菜の声に吾朗は我に返った。「去年から子会社に行っ
てる。本当は仕事を止めてこっちへ帰りたかったんだが、まだ仕事を止めて貰
っては困ると奥さんに叱咤激励されてね。」冗談とも本当ともつかぬ口調で吾朗
は言った。「本当よね。まだ若いのだから。吾朗君はこちらに帰って何かやりたい
ことでもあるの。」「具体的には何もないけど、ただ余生はのんびり生れ故郷でと
思っただけなんだ。やっぱり我儘かなあ。」
 若菜は吾朗君ってロマンチストだなあ....と思った。この長寿の時代、六十歳で
のんびりしていられる人なんていないよ。若菜の夫の久志は六十五歳の今でも
第二の職場で頑張ってくれている。そしてそれを当然と思っている自分がいる。
 私たちはなにをしているんだろう。こんなところで現実的な話をしている。
 若菜は可笑しくなって吾朗を見た。
吾朗も何だか変な気持ちで落ち着かなかった。少し冷めてしまったコーヒーを
同時に飲んだので、ついふたりはくっくっと声を合わせて笑った。
 吾朗は若菜とお茶でも飲んだら、若かった頃の思い出話に花が咲いて、何と
なく甘い雰囲気が味わえるのでは.....と期待していた自分を、今さめた目で見て
いた。
 時々夢に現れる若菜とこうして少しの時を過ごせたことでよかったではないか。

 窓の外に目をやるといつの間にか雨が降り始めていて、濡れた舗道が街の灯
に潤ん見えた。
 吾朗はもう一度窓にもたれて雨を見ている若菜の顔を、じっと見つめた。



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夢の通い路  終章 [平成シニア物語]


 信之の決断は早かった。由紀子を説得して数日後には、芳野君と相談して家賃を
決め、あの家を借りることにした。
 叔父さんは、自分たちの小物は処分し、大きな家具などは納戸にまとめるので、後
の部屋は自由に使ってもいいと、言っていると芳野君から伝言があった。二階には六
畳間が三つもあって、もし子供たちが遊びに来ても充分だった。
 信之は「由紀子がどうしても嫌なら僕一人で行くけど、一緒に来てくれたら嬉しいな
あ」と照れくさそうに笑った。
 由紀子は今の今までここに残りたいと考えていた。田舎の生活は嫌だった。でも信
之のこの顔を見て、この年になって二人が離れて暮らすなんて、やっぱり不自然だ、
それにこの家に永住するというのではないのだから、ここは信之の思うようにしょう。
 由紀子は自分が長年やっている趣味の会に出る時や、市内でどうしても出たい催
し物がある時は、信之に車で送迎してもらう約束を取り付けた。
 準備といっても、大引っ越しをする訳でもないので、取り敢えず当座のものだけで
二人は秋たけなわの佐山にやって来た。
 隣家の人は勿論、組内の人たちも素朴で気のいい人ばかりで、二人を大歓迎して
くれたので、この頃では由紀子の方がここの生活が気にいっていた。
 四季折々の新鮮で美味しい野菜や果物、移り変わる自然の確かさとその美しさ。
ここに来てすぐに、やって来た冬も、思っていた程寒くはなくて、時折ちらつく小雪や
二、三回積もって、すぐ消えた雪景色は、遠くの山の峰に白く残って輝く雪と調和して
本当に清々しかった。由紀子は庭に立ち尽くして飽かず眺めた。
街にいるとき、あれほど苦心して作っていた短歌も、数だけは苦労することなく次々
詠めた。
 信之は自分で望んだだけあって、生き生きと毎日を思うままに過ごしていた。芳野
君がグループの仲間四人と一度やって来た以外は、訪ねて来る人もなかったが、彼
は自分の趣味に没頭し、由紀子と二人の生活を満喫しているようだった。
 月に一度くらいは二人で街に戻って映画を見たり、食事をしたり、わが家で二、三日
泊まって帰ることもあった。


 この頃由紀子は一人の時などに、若い日のこと遠い昔のことをふと思いだすことが
よくあった。
 結婚するまでの三年余り、離れて暮らしていた、信之と由紀子は、月に一回くらい
しか逢うこともなく、そうだお互い結構切ない想いをしたものだった。
 二人で一緒にいるだけでいい、と何度思ったことだろう。でも結婚してしまうと、そん
な気持ちなどすっかり忘れて、生活に、子育てに忙しい日々の中で、早くも四十年の
月日が流れた。そしてまた二人だけの生活にもどった。今度はゆっくりとのんびりと。
 信之はどうなんだろう。きっと彼も同じなんだろうなあ。今更昔の話を持ち出しても
笑われるだけだよね。
 今まで幸せだった二人。少なくとも由紀子は信之と結婚したことに満足していた。
気が強くて、女性らしいところなどまるてない由紀子を、大切にしてくれた。誠実に接
してくれた。結婚するときに交わした約束もしっかり守ってくれた。
 一度信之の目を見て有難うと言いたい......由紀子は心の底からそう思った。


 「ああ、やっぱり鈴虫だよ。鳴いているよ」信之の小さい声に由紀子は我に返った。
「本当きれいな声ね。」二人はしばらく耳を澄ましていた。
「風が冷たくなったね。風邪をひくよ、中に入ろう」信之は言いながら由紀子の肩にそ
っと手を置いた。暖かいその手の温もりが由紀子にすっと伝わって来た。
 由紀子の胸に突然熱い感情が甦って来た。そしてずっと昔にもこんな夜があった
ような気がした。
 信之とここにきてよかった。
 これからの人生を二人で素敵に全うしたいと切に思った。
 由紀子は、かすかな月明かりに見える信之の顔を、やさしい想いで見つめた。 

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夢の通い路  2 [平成シニア物語]


 二人で車に乗っている時は、由紀子が話しかけない限り信之から声をかける
ことは滅多になかった。でも今日は違った。さっきまで彼が喋り続けていた。
「芳野君の叔父さんは八十五歳で、この春まで元気で百姓をしていたらしいんだ。
子供たちは皆出て行って、後を継ぐ者などいない。もう年だからと子供たちに仕事
を止めて一緒に住もう、と言われても、ここが一番いいと頑張っていたのに、畑で
転んで腰を骨折してしまった。医者に仕事はもう無理だと言われて、さすがの叔父
さんも、退院したら子供の所へ行くと決めたそうだ。その話を聞いて芳野君は、{ど
こか田舎に空家はないか、余生はそこで過ごしたい}と口癖のように言っていた僕
のことを思い出したのだそうだ。相談を持ちかけた芳野君に、叔父さんは誰も住ま
ずに廃屋になってしまうより、住んでくれる人がいればそれだけでいい。お前の友
だちなら安心だ、と言ってくれたそうだよ。」
 由紀子はあきれた。自分の言いたいことがあったら、この人はこんなに一人で
喋るんだ。しかもその一言一言に、弾むような信之の心情が見てとれて、今日この
家を見たら、彼はそこに住むことになるのだろう.....と由紀子は思った。
 大きな道路から少し山道に入って、かなり走った頃田圃が続く中に農家もポツリ
ポツリとあるし、そこで働く人影もみえてきた。「もう佐山でしょう。さっき道路標識に
あったような気がするよ」「うんこの辺りだと思う。ナビが目的地についたと言って
いるからちょつと聞いてみよう。」
 低い山裾に沿って松か杉のような大木の林があって、その脇を小川がさらさらと
ながれている。真上にある太陽の光が、想像していたより遥かにやさしい。
 信之は近くの農家の前に車を止めた。表で作業をしていた女性が立ちあがった
「こんにちは、ちょっとお尋ねします。芳野要三さんのお宅はどちらでしょう。」信之
が声をかける。「ああ」女性はにこにこと「こんにちは、芳野さんとこならこの隣だけ
ど、今は誰もおりませんよ。」と大きな声で言った。「有難うございます。実は」この
いかにも好人物らしい女性に信之はここに来た訳を話した。「そうですか、おじいち
ゃんも、本当に元気だったのに残念です。でもよかったあ!! もう隣に人が来るなど
無いと思っていたので嬉しいです。私村木順子、主人は登、二人でぼつぼつ農業
やっています。そうですか嬉しいなあ。」順子は本当に嬉しそうに何度も頭を下げた
「まだここに来ると決めている訳ではないのですよ。」由紀子は何度も口を出しそう
になっては止めた。
 この辺りの景色といい、のんびりさといい、穏やかさといい、ましてこの明るい隣
人の出現、信之に、ここに住まないという理由は何ひとつないように思え。
 二人は順子に礼を言って芳野の家に入った。雨戸の閉められた家の中はカビ臭
い匂いがした。二人でとにかく南に面している廊下の雨戸を開けた。真夏の太陽の
光が飛び込んできた。北側の窓も開け放った。風がさっと通り抜けふたりは思わず
顔を見合わせて笑った。
 廊下に面して八畳の部屋が二つ、大きな床の間の真ん中に鯛を釣った大黒様の
置物がでんと置いてある。隣の六畳の部屋の壁にカレンダー、時計、卓袱台。テレ
ビ、小さい引き出し箪笥。この部屋には芳野さん達の生活の匂いがあった。ここは
茶の間だろう。続いてキッチンがあり、流し台の後ろの小窓を開けると、直ぐに裏山
が見えて、降るような蝉しぐれが飛び込んできた。
 その向かいに広い納戸があり大きな箪笥や布団戸棚が、整然と並んでいた。
 ここに住んでいた人の、きちんとした、誠実な人柄が偲ばれるような家の中の様
子だった。
 二人は滴るような緑の林が近くに見える廊下で、お弁当を食べた。おにぎりと、
卵焼きと、茄子と胡瓜の浅漬けだけのシンプルな昼食が、ここにはよく似合って、
由紀子はふっと「幸せだなあ」と思ってしまって信之の顔を見た。満足気な彼は口
いっぱいに頬張ったおにぎりを、ゆっくりと噛みしめている。由紀子は黙ってポット
から冷たいお茶をコップ一杯ついで渡す。穏やかな真夏の昼下がり、信之の満足
そうな顔が印象的だった。
 帰り際に順子が車に近寄ってきて、「是非来て下さいね。楽しみに待っています」
と大きな声で言って手を振ってくれた。信之と由紀子も「有難うございました。」と丁
寧に挨拶して、この地を後にした。
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平成シニア物語  夢の通い路  1 [平成シニア物語]


 鈴虫の声を聞いたような気がして、由紀子は庭に出た。
十月も半ばの里の庭は、少し風が冷たく感じられた。垣根に白い秋明菊の花が
咲いている。
 見上げると南の空に上弦の月があって、その深い黄色が暮れたばかりの藍色
の空に解け入るように美しい。
 由紀子は思わず大声で夫の信之を呼んだ。「鈴虫いたの?」あわてるふうもなく
信之が出て来た。「鈴虫よりあの月見て、ああ本当に素敵でしょう。こんな空を見
るとここにきてよかったと....思うのよね。」由紀子が感慨深げに言う。信之は空を
見上げて、そして由紀子の顔をみて満足そうにうなづいた。
 二人がこの里山の古い家に移り住んで、もうすぐ一年になる。
 ここから車で二時間程の市内にある家には、時々風を入れに帰る。この街は
程良く都会で気候も温暖で災害も少ない。お城も温泉もあって二人は気に入って
いたし満足していた。ここで子供たちを育て送り出した。
 信之が定年を迎えた二年ほど前、彼はずっと考えていた思いを口にした。
田舎に住みたい、庭に木を植えて花を育て、好きな絵を描き、音楽を聴いて自分
の思うままに、好きなように自由な余生を送りたい.....と。
 由紀子が信之と関わって四十年余が過ぎた。彼の考えていることはすべてわか
っているつもりで、これからは信之の思うようにしたらいいと思っていた。
でも由紀子は庭にも花にも興味がない。一時間に一回しかパスの来ないところ。
デパートもスーパーもない所に住むことなど考えるのも嫌だった。だからこの話を
聞いた時、「あなたの好きなようにしたらいいよ。でも私は嫌! 」と由紀子は即座に
つっぱねた。この時、この話はあくまで信之の理想であって、彼が本気で実現する
ことを考えているなど思ってもみなかった。
 信之もこのことに関してその後なにも言わなかった。
 時々車で走っているときなど、山陰にポツンと建っている人気のない田舎家など
見つけると、信之は「あの家いいねえ、売ってくれないかなあ、いや貸してくれない
かなあ」などと言う。そんな時由紀子は聞こえぬふりをして話題をそらす。
 信之は田舎へ隠遁などしなくても、この家には小さいながら庭もあるし、盆栽も
造るし花が咲いていない時はない。剪定も自分流に好きにしている。日曜大工や
料理にも興味をもち、まったく時間を持て余すことなど決してなかった。
 その上趣味を通して、それぞれの仲間もいて、これらの人間関係は、彼の財産
でもあると由紀子はいつも羨ましいと思っていた。
 去年の夏、出かけていた信之が息せき切って帰るなり「ちょっと話聞いて。」と
由紀子を呼んだ。「芳野君のおじさんが家を貸してもいいと言っている。そこを是
非借りたいのだけどどうだろう。」と興奮して叫んだ。由紀子は「ああ、もうこれは
自分では決めているな。私が何といったところで....」と半ば呆れながらも。こんな
に子供のように喜んでいる信之の顔を見ていると否とは言えなかった。「そう何処
なの、余り遠い所は嫌ね」と落ち着いた口調で言った。「ああ佐山だ。車で二時間
くらいかなあ。とにかく行ってみたい。」県内でも過疎化の進んでいるところで由紀
子もテレビで見たことがあった。
 善は急げ!!信之はナビに行く先をセットして、翌日二人は佐山に向かった。
朝からの厳しい太陽の光、日中はもっと暑いた゜ろうと由紀子は気がめいった。
 街をはずれてぐんぐん走っても、こんな田舎にもと思う程立派な道路が続いて
いて、ポツリとバス停もある。遥か目の下に見えるダム湖の水がキラキラと夏の
陽に輝いて、山の濃い緑が美しい。由紀子はふーんちょっといいじゃないと、い
つかいい気分になって来た自分がおかしかった。

 
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