一人で生きていくということ [随筆]

 連日の猛暑のなか、また新しい一日が始まります。

日は変わっても私の毎日にさしたる変化もありません。今はオリンピックに熱中

日本選手の活躍が素晴らしくて、明け方まで頑張るので寝不足が続いています。

 エアコンの効いた涼しい部屋で手が赤くなるほど拍手をしたり、ときには大声で

応援しても、うるさいと文句を言う人もおりません。

 家のことに関しては庭の木の水やりも、延びて来た雑草を何とかと思うだけで

自分でなんとかしょうという気は毛頭ないノラの私です。

 そこで草引きは去年もお願いしたシルバー人材センターに連絡しておきました。

下見にきた人は私と同年代くらいの男性で、暑いので早朝来てもいいですかと

のこと、私も承知してこちらの都合の悪い日だけをお知らせしておきました。

 二、三日して朝ラジオを聴きながらうとうとしていると、下の方でごそごそと作業を

している気配がします。

 わが家の斜め後の土地で野菜を作ってい人がいて、作業をする時は朝早くから

バイクでやってきて夕方まで働いています。その人が来ているのだと思いました。

 しかしどうももっと近くで音がします。えっ! もしかしてわが家? 私は飛び起きて

下りて行きました。

 なんとわが家の庭でおじさんが作業しているではありませんか。

何の連絡もなかったので驚きました。車庫のカンヌキも上手に開けて涼しい木陰で

草引きを始めていました。

 「お早うございます。早かったので声もかけませんでした。」と笑っています。

 二時間くらいせっせと作業をして、続きは明日にしますと帰って行きました。

 次の日は私も早起きしておじさんを迎えました。

 庭には所せましとプランターや植木鉢がいっぱいあります。正確には元は全部

花や木が植わっていたのです。これらの鉢から土を出してきれいにして貰えない

かとお願いしました。

 おじさんはこんなにたくさん花を作っていたのに枯れてしまったんだねえと言い

たげに私をみていました。

 今はベゴニアや君子蘭やシンビジュウムのような強い生命力のあるものだけが

水もろくに貰えないのに息も絶え絶えに生き残っています。

 それでも季節にはきれいな花を見せてくれるのです。私がやることは寒くなったら

室内にいれるだけ。

 それでもさすがに今年の暑さにはみんな葉っぱを黄色くして辛そうです。

 植木鉢の土を庭に戻して片付けると、庭は見違えるように広くさっぱりときれいに

なりました。

 大満足の私は、これからはもう少し庭に心を配らなくてはと思いました。

 おじさんは二時間仕事をして、また来年もよかったら声をかけて下さいと帰って

行きました。

 お盆の前に気にかかっていた庭の整理が出来て本当によかった。おじさんに

心の底からお礼を言いました。

 でもよく考えてみると、世の中の主婦たちはこのくらいのこと多分自分でやって

いるのでしょう。

 昔から私の仕事でないと決めつけて、夫がするのは当たり前、好きでしている

のだからと、手伝うどころか感謝さえしたことはありません。そんな私に夫は文句

ひとつ言いませんでした。諦めていたのでしょう。

 今一人になってつくづく思うのです。夫だったらどのように生きているだろうか。

 私がいなくても何の不自由もなく、食事つくりも楽しく好きなご馳走を作っている

だろう。アイロンかけだってずっと夫の方が上手だった。

 趣味も沢山あってこれからやりたいことも話してくれた。、時間を持て余してボーと

テレビをみていることんなて絶対にないでしょう。

 私が代わってあげればよかった....。

 それでも一人で生きていくということは、まして年老いて行くこれからはとてもとても

大変なんだから。

 もう面倒くさい、どうでもいいと拗ねる私に、娘が言います。

「あと三年でパパの十三回忌。そして東京オリンピック見にくるのでしょう。まだあるよ

おじいちゃんの五十回忌は後七年。ママは頑張らなくちゃ」

 ああそうだね。大好きな父と夫のためにもう一頑張り。

 ええ? 私何歳になるの。

 

 
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泣きたいほどの酷暑です [随筆]

 今日で二日続いて三十六度。その前十日ほど三十五度が続いています。

雨は日記を繰って確かめました七月十三日から一滴も降っていません。

 終日エアコンの中にいてスーパーへ買い物にでる以外全く外出していません。

土曜夜市も花火大会もニュースで見て、この暑いのにこれだけの人がよく集まる

ものだと感心しています。

 年のせいだけではないよ....と自分に言い聞かせつつ、この酷暑が過ぎるのを

じっと待つしかありません。

 オリンピックは睡眠不足を承知で見たいのはライブで見ているけれど、いつも

ほど元気がなくて、明け方に絶叫応援していたロンドンが懐かしい。

 今は拍手するのが精一杯。

 こんな様子だから庭の鉢植えは全滅寸前、恨めしげな夫が夢に出てきそうです。

 先日も朝の八時頃チャイムが鳴るので出てみると、隣の奥さんが

「ねえ椿が枯れかけているじゃない。私いつも楽しみに見せてもらっているのに

お水くらいやったらどう。」

 実は私も気になっていました。この間から黄色くなった葉がパラパラ落ちているし

ああ水やらないと大切な椿なのにと思いつつ、そのままになっていました。

 水はすぐ側にあるのに....と咎めるような奥さんの目に少しばつが悪いと思いな

がら「はい分かりました有難うございますお水やります」とお礼を言いました。

 春になったら紅色と白に咲き分けて私を優しい気持ちにさせてくれる大切な椿の

木に心のなかでごめんと謝りました。

 でも庭木に水をやるのも大仕事、夏の夕方には蚊取り線香を腰にぶら下げて

毎日庭で長い間水やりをしていた夫の姿を思い出しました。

そして私には「あれほどのことは出来ん」と呟いています。

 要するに私はのらなだけなのです。

 この暑さがいつまで続くのか、明日もまた晴れで降水確率ゼロパーセント最高

温度三十六度の予報です。

 せめて熱中症にならないように水分を取りつつ、とろーんとしている私です。
 

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蝉たちと仔猫の話 [随筆]

 朝方猛烈な蝉の合唱で目がさめました。

ここは古い団地で七十戸ほどの家に庭木が茂っています。でも近くに山はないし

これほどの蝉がいるのかと毎年夏になると、私は考え込んでしまうのです。

 今朝はまた格別の賑やかさで、その声を楽しむなんて気にはなれません。

 ただ今日も朝から暑そうで嫌な感じで、まだ起きるのは早いしと目をつぶって

いました。

 すると屋根瓦の上をみしみしと歩く音がします。二階で寝ている私のすぐ近くで

それも複数いる感じ。

 私は北の窓をあけて覗いてみましたが犯人の姿は見えません。

南のベランダの方へ回ってみると、まさに屋根からベランダへ足を踏み入れつつ

ある犯人と目があいました。

 一瞬の睨みあい、「こらっ!」 と叫びたいのに私は思わず見入ってしまいました。

なんてきれいな仔猫ちゃん。可愛いというより白とグレーのツートンカラーのからだ

 目はきらりと鋭く光っているのに気品があってツンとすまして私を見ています。

見ているのではなくて、多分驚いて動けなかったのだと思います。

 一瞬の後転げるように姿がみえなくなった途端「こらあー」という隣のご主人の

大きな声が聞こえました。

 そう言えばつい先日のこと隣の奥さんから電話が来て

「うちの庭に猫が四匹もいるのよ。お宅の庭から来たところを見たのだけど.....」
 
 そう言われてもわが家の飼い猫でもないし、私は犬派で猫はイマイチだといつも

言っているのを彼女も知っているはずです。

 どうもわが家の物置の中辺りで野良猫が子供を産んだのでは.....と言いたそう。

 物置は鍵がかけてあるし中には入れないと思うけどと言う私に

「猫は地面を掘ってでも入りたい所へははいるのよ」

 少しいらいらしてきた私は

「それなら残念わが家の物置は、周囲をコンクリートで固めてあるから」

 別に喧嘩をしている訳ではないので奥さんも

「そう、それなら入れないね。でも困ったものだわ。」と笑いました。

 まあ野良猫は仕方ないね。餌など絶対にやらずに知らんぷりしていれば

出て行くでしょう。

 私なんか車庫で寝そべっている猫ちゃんに何回言ったか。

「家賃も払わずに、なんでそんなところで大きな顔して寝そべっているの?」

 
 また暑い暑い一日ににりそうです。蝉の声にも元気を頂きましょうか。




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五月晴れの鎌倉を歩く [随筆]

 ゴールデンウイークのど真ん中人出は覚悟の上で鎌倉に向かいました。

それでも何とかのんびり行きたいと、少し早目に出発しました。

 息子にはあっさり断られ、内心しめたっという本心は隠して娘と二人でるんるん。

 電車は上野で乗り換えてからも信じられない位空いていて、のんびりと車窓を

楽しみました。

 戸塚で弟夫婦と合流、北鎌倉に九時半頃には到着しました。

やっぱり凄い人でホームから出るのにも牛歩のごとくそろりそろり。

 それでも大好きな鎌倉、今まで何回も来たけれど最後に夫と来てからは十二、

三年振りになります。

 駅を出るとまず一番近い円覚寺へ、いつ見ても荘厳で立派な三門にしばらく

見とれてしまいます。緑濃い境内は人が多いけれど気になる程でもありません。

 ここは鎌倉五山第二位の寺で、仏殿におわすご本尊は釈迦如来。しばらく手

を合わせお祈りして遠く鎌倉時代に思いを馳せました。

秋には紅葉が有名ですが若葉も本当に美しい。

  国宝の梵鐘もいつ見ても心が落ち着きます。

 鎌倉で行きたいお寺は星の数ほどあるけれど、今日訪ねたいお寺は決めて

いました。

 次の東慶寺はかけこみ寺として有名です。女性の側から離婚出来なかった

封建時代、ここに駆け込めば離縁出来る女人救済の寺として、明治にいたる

まで六百年間、縁切り寺法を守ってきたそうです。

 山門に続く石段は高く長く、この寺に入る決意の強さを問うているように私

には見えました。

 宝形造の屋根が美しい本堂「泰平澱」に祀られているご本尊は釈迦如来坐像

です。

 境内の奥には歴代住職の墓苑があります。折角来たのだからと頑張って

歩きました。

 安倍能成、出光佐三 岩波茂雄 川田順 小林秀雄 西田幾太郎 野上

弥生子 高見順 前田青邨 和辻哲郎など日本を代表する人たちのお墓が

時代を写して静かにあり、大勢の参拝者がおりました。

 北鎌倉から鎌倉への道に沿って歩くことにしました。歩いている人の列も

途切れることはありまませんが動いています。

 しかし隣の道路は車の渋滞、色とりどりの車がのろのろと、歩く方が断然

早そうです。少々足が疲れてもちょっと優越感があるのが私らしい。ふふふ。

 次の浄智寺は鎌倉五山四位のお寺です。

寺域が背後の谷戸に深く延びて境内は竹や杉が多く閑静なたたずまいです。

 参道入り口の石橋のほとりにある甘露の井があり、今は残念ながら水は

飲めないそうです。

 二階が鐘楼とい珍しい山門をくぐると本堂の昇華殿にはご本尊の三世仏

阿弥陀如来(過去) 釈迦如来(現世) 弥勒如来(未来) の仏様で、三世に

渡って人々の願いを聞き入れて下さるという仏様です。

 私は宗教のことは分かりませんが、こういう説明を読んで手を合わせると

なんとなく気持ちが安らいでくるのが不思議です。

 帰り道にお腹をさすると、元気を貰えるという大きな布袋様が立っていて

皆がさすったお腹の辺りが、黒光りしているのがご愛嬌でした。荘厳な気持

から解放された一瞬。勿論私もお腹さすりました。

 もうかなり歩いたということで、少し早いけれど、三軒目にやっと入れた店

で精進料理を頂きました。

 けんちん汁と五穀米のご飯、筍と蕗の葉のてんぶらと漬物。あまりお腹も

すいてなかったからかしら、まあまあでした。弟がご馳走してくれたのにね。

ちなみに献立は一種類だけ、テレビにも出たことあるようなお店だそうです。

 元気が出たところで、ひたすら鎌倉八幡宮に向かって歩きます。

空は青く風もあって歩くのにはいい調子ですが、もうかなり嫌になっています。

私のことを大丈夫かと三人が気遣ってくれるので、余計頑張る私です。

 やっと八幡宮の裏手に辿り着き坂道を登るとびっくりポン。居るは居るは、

なんと人の群れが下から本殿に向かって迫ってきます。

 横から行った私たちはラッキー、割合すぐに本殿に辿り着きお参りすることが

出来ました。

 石段の下に来て今回私が一番見たかった銀杏の木の側に立ちました。

このあたりは人がびっしりということもなく、台風で倒れた大銀杏から生えた

芽を大切に育て、今その若木が二メートル程なり黄緑の葉っぱが五月の光に

輝いて風に揺れていました。

 三代将軍源実朝がこの大銀杏の蔭に隠れていた甥の公暁に暗殺されました。

そしてその時から公暁のかくれ銀杏として知られるようになりました。

 写真嫌いな私がこの銀杏の木と一緒に一枚撮ってもらってご機嫌です。

 見事に咲き誇るぼたんの花を堪能し、新しく出来た段蔓の参道を歩き、小町通

には目もくれず最後の目的地寿福寺に向かいます。

ここは北条政子が頼朝のために建立した格式高い鎌倉五山三位のお寺です。

 長い参道の脇には大木が茂り、総門の前に立つと荘厳な気持ちになります。

ここの境内は非公開ですが私の目指すのは、その裏山の奥にある政子実朝

親子の墓と伝えられる祠です。

 前二回ほど訪ねた時はもっと近かったと思うのに、丘を背負う谷戸の一角の

その場所は険しく遠い。

 坂道をあがったり下りたり、やっと二人のやぐらの前にたった。苔むした小さな


祠の中に五輪の塔が祀られ、花が供えられ灯もともっています。

 とても質素で、政子親子のイメージとは程遠く感じられましたが、これこそ私の

好きな実朝らしいと心から手を合わせ彼の数奇な生涯を思いました。

 まだ時間は充分あったのですが残念ながら足が危うい。

他の三人が元気かと言うと、弟は写真を百五十枚もとってややげんなり。

娘と義妹はまだまだ行けそうだけど、ここでやっと喫茶店をみつけああ嬉しい。

 なかなかおしゃれな店で、美味しいコーヒーとケーキで一休み、何故か弟は

生ビール?

 今日の鎌倉は私満足度百パーセントよ。まあ私の一人よがりのところはあった

にせよお付き合い有難う。と皆に心からお礼を言いました。

 戻って来た鎌倉駅は、三時半過ぎだというのに人でごった返し、江の電のホーム

は入場制限をしている有様。私たちはそろそろ引き揚げることにしました。

 今夜は泊って、ゆっくりして行ったらと言う有難い義妹の言葉に感謝しつつ、戸塚

で別れて、帰途につきました。

 また嬉しいことに電車には座れるし、乗り換えた品川からも座って帰りました。

 夜になって弟から沢山の写真とともにメールが届きました。

 他の弟たちにも送ったようです。

 「足は大丈夫ですか。今日は一万六千歩、十二キロ歩きました。」

これを見た途端どっと疲れが出ました。すぐにゆっくりお風呂に入りました。

 去年の病気から一年、今日こんなに元気に鎌倉へ行けたことを本当に嬉しく

思いました。

 私の楽しい思い出がまた一つ増えました。

  

 

 



 

 
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白山吹の花の向こうに [随筆]

 ことしも白山吹の花が風にゆれて、こんな晴天の日には一際その白い花びらを

美しいと感じてしまいます。

 朝から何となく寂しくて少し落ち込んでいるのです。

 昨年の病気から早くも一年。すっかり元気になったのに、ただひとつ元通りに

ならないことがあります。気力.....あれほど元気印だったのに涙もろくなり、今まで

気にもかけなかったことにどーんと落ち込み、寂しがりやになり、明るくて男らしい

のが取り柄と自他ともに認めていた私か゜とても女らしくなってしまいました。

 鬱? それはない。

 ところがふと思い出した、入院した日が結婚記念日だったことを。前日お花をもって

お墓参りに行った時、「すぐ来て欲しいなら喜んで側に行くよ。でももう少し待ってくれ

るならそれもいい。貴方の考えにしたがいます。」私は長いことお祈りしました。

 入院中苦痛もなく、退院後に飲む薬もなく一応元気で帰ってきました。そして思った。

もう少し待ってくれることになったのだと。

 そして一年後の今、病気記念日のことばかり考えていて、結婚記念日のことはすっ

かり忘れていました。

 思いだすと懐かしく、ここ数日夢の中をさまよいずっとずっと昔に帰っていた私です。

 色とりどりのテープと蛍の光のメロディーに送られて、ゆっくり港を離れた新造船。

 青い空と藍色の日本海が美しくてただただ歩いた鳥取砂丘。

 城崎の円山川にかかる石橋に映えていた柳並木の若緑にうっとり。

 バスでガタガタ中国山地を越え、二人だけで登った人形峠。

雑木林を渡る風の音と、足元にはまだ深い雪が残っていた。はるかに望む伯耆大山

の雄姿を声もなく眺めました。自然の雄大さについ静かな二人でした。

 ふもとの奥津温泉は川岸に桜の花が満開で、優しく二人を待っていてくれました。

 明るい岡山の後楽園に親友のМさんが迎えてくれて、一年振りの再会は嬉しくて

忘れられません。

 もう五十六年も前のことを、こんなに鮮明に思い出したこともありませんでした。

 今私の思うことはたったひとつ、二人で思い出したかったと。

彼はきっと思っています。「馬鹿な夢見る夢子さんの妄想が始まった...」.と。

 私が落ち込んでいるのはそう、現実の世界に戻ったからでしょう。

 でもここに綴ったことで元気か゛でました。少しは照れくさいのを我慢しています。

 


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さくら追想 [随筆]

 今朝方からの春の嵐が、満開の桜の花を散らせてしまうのではと、心穏やかでは

ありません。

 雨もかなり降っていて、日曜日に見た桜並木を思い浮かべあの日行ってよかったと。

午後から雨の予報でしたが「それまでに行ってみよう」と弟夫婦がやって来たのでした。

花見に行こう! などと一人叫んでいた私ですが、それぞれの事情で手を上げる友もなく

しょんぼり、がっかり今年も近場へ一人で行ってみようかと思っていたところでした。

 花見弁当をスーパーで買って、どこへというあてもなく車で桜を探しつつ走るのです。

 夫がいた時は毎年四人で花の季節を楽しみました。海沿いの公園。山の上の一本桜。

エメラルドの海を道連れに、しまなみ海道を渡り尾道の千光寺の桜を堪能したことも。

 みんな六十代でまだまだ元気でした。全く思いつきで晴天の日を選んででかけました。

先日も車の中でその話になりお義兄さんが元気だったら、まだまだ続けられたのにと義妹

が残念そうに呟きました。

 私の頭の中に家族で行ったあちらこちらの花見の光景が浮かんできました。

 でも一番忘れられないのは、私たちの結婚の承諾を得るために夫がわが家へ来た日。

三年近く私たち二人を見ていた父母だから、反対されることはないと思いながらも不安で

特に私は、その場にいないと駄目?などと弱気なことを言って夫に睨まれたものです。

首尾は上々あっけないほどで両親の笑顔は今でもはっきりと思いだせます。

 私たちは春真っ盛りの郊外の公園に向かいました。この嬉しさをどうしたらいいのか、

歩いて歩いて、今思うとあんなに遠くまで六、七キロはあったはずです。

 桜の名所ではあったけれど、知る人ぞ知るで桜の木の下に人影はなく、なだらかな

斜面に並んだ桜の若木には、まだ初々しく見えるほのかな薄いピンクの花がゆるゆると

春の風に揺れていました。斜面を下ると優しい青い水を湛えた三つの池があり、岸辺

にも桜の木が数本花は満開でした。

 ここで二人でいっぱい写真を撮りました。今その写真を見てはあの日のことを懐かしく

思いだすのですが、あの桜の記憶以外、私何も思い出せないのです。

お弁当もお茶も、飴玉ひとつも持ってなかった飲まず食わずの二人が何を話をしたのか、

あの斜面の細長い石に長いこと二人で座っていたのに。きっと幸せすぎたのです。

 
 あの日から五十七年の月日が流れました。

今一人になった私が近場で花見をしょうか....と毎年見にいく桜の名所、こここそ昔二人が

訪ねたあの場所なのです。

 結婚して四年後私たちの家が出来ました。分譲地を決めたときこの土地に不思議な縁を

感じました。あの日、数年後にこの思い出の桜の近くに住むことになるなんて、思っても

みなかった二人です。

子供たちが小さかったころはお弁当を作ってよく出かけました。団地の毎年の花見もここで

楽しみました。 

 長い時が往き今はあの若木が大木となって枝を広げ花を咲かせ、紺碧の空をさえ隠して

しまいそうです。花見の季節には人の姿が絶えません。

 桜の花の美しさ清らかさ優しさは、季節が巡るたびに人々の心に懐かしい思い出を紡いで

いくのでしょう。
 



 
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桜の花に浮かれたい [随筆]

 四月といえば心うきうき。なーんて思ったのはずっと昔のこと。

今は平穏な一日が続けばよしと、いかにも年寄りくさい自分が嫌になります。

 特に病気をしてから時折頭をもたげる弱気に、一番腹がたっているのは自分。

散歩道に出ると、瑠璃色ちりばめて咲くいぬふぐりや、黄色や白のタンポポ、

つくしも顔をみせています。池には鴨が親子連れでのんびりと遊んでいます。

 遠くの山は薄く霞み高い青空に飛行機雲が一筋。

 本当に春爛満、平和なこの時代に生きていることの幸せを感じずにはいら

れません。

 そうだ 、元気を出して桜が満開になったら友を誘ってお花見に行こう。

 良い気分になって家の回りの掃除をしていたら、近所の奥さんに声をかけ

られました。

「この頃あまり見掛けなかったけど、また東京へでも行ったのかと思っていた」

とのこと。私は笑って

「いいえ毎日家にいます。スーパーへ行く以外はあまり外にでないから。そう

言えば久し振りですね。」

 彼女は私より三、四歳年上だけど定年まで勤めて、三つ年上のご主人と

元気に仲良く暮らしておられます。

 私が羨ましいという前に彼女は言いました。

「いいねえ。奥さんは自分のことだけして羨ましいわ。私は足も腰も痛いのに

家のことは全部私がして主人は何もしない。ただ偉そうに命令するだけ。これは

共稼ぎの時からずっと変わらずでいい加減嫌になったわよ」

 「でも側にいてくれるだけでもいいでしょう。話し合って少し手伝ってもらったら」

私の言葉が終わらぬうちに、彼女はこう言い放ちました。

 「こんなことなら、いない方がずっといい」

 私は耳を疑いました。返す言葉も、いつもなら向きになってそんなことは.....と

つっかかる私が何も言えません。言えないのではなくて言いたくなかったのです。

  私は愛想笑いをしてその場を離れました。

 家に入って私はへたへたと座り込んでしまいました。

夫婦ってなんだろう。この年になっては一緒にいる時間もそう長くはない。冗談

だとは思うけど、夫のことを仮に一瞬でもそんなふうに思う妻がいるということが

私には衝撃的でした。

 落ち着いてくると、まあ夫婦もいろいろあるよねえ。皆がみな円満という訳でも

なかろう。と思い始めました。

 さっきの彼女だって若い時は二人でバトミントンやカラオケに行っていました。

そうだ年のせいだ。そう思うことにしました。時には人格さえも変えてしまうかも。

 年を取るということはなんと残酷なことでしょう。

 どんなに、よぼよぼでも横暴でも病気だっていい、私は夫にもっともっと側に

いて欲しかったと、改めてそう思った出来ごとでした。

 
 庭の利休梅が白い花をいっぱいいっぱい咲かせてします。

 私決めました。今年の春は心して絶対に楽しく過ごすぞ! みんな集まれ!

 あの遠い遠い昔、私たち二人のスタートも桜が満開の四月でした。




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じゃあ またね [随筆]

 彼岸の中日、夫の兄が亡くなったという知らせが来ました。

突然のことだったので驚きました。

 昨年私と同じ頃に手術をしてその後は元気だと聞いていたし、一カ月ほど前にも

電話で話した時、とても明るく私のことを心配して気遣ってくれていたのに。

八十六歳でした。

 長男として頑張り、昨年六月、百六歳の義母を見送って安心したのかしらと、皆で

話しました。

 義兄の子供や孫やひ孫たちが集まり賑やかで頼もしいなあ。ふと羨ましい気がし

ました。その他の親族と言えば私と義妹の二人だけ。

 民生委員や農協の役員など長く勤めたようで、大勢の方が集まって下さいました。

義兄の顔をみていると男の兄弟は二人だったので、その面ざしからいやでも夫のことが

思い出されました。

 離れ住んでいてお正月とお盆くらいしか会うことが無かったけれど、本当に優しくて

長男らしい人でした。

 義父も九十三歳で亡くなる前一週間ほど入院しました。

私が単身赴任の夫に代ってお見舞に行った時、義兄だけが病室にいました。

義父が桃を食べたいというので私が皮をむいていると、なにくれとなく世話をしていた

義兄が本当に自然に外していた義歯を入れてあげているのが見えました。

 私はびっくりしました。夫にはこの真似は出来ないだろう、いいえ私だって出来ないと

思いました。じわっと目の奥が熱くなりました。もう二十年も前のことです。
 
 後年この話は何回も夫にしました。「あなたには出来ないでしょう。」と。

彼は黙っていましたが、今では夫も義兄に負けないくらい優しい人だったから、きっと

同じことが出来ただろうと思っています。

 最後にいっばいのお花に埋もれた義兄に心のそこからお礼を言いました。

 帰り道、義妹が

「お義姉さん私思いだしたわ。兄さんと最後のお別れをした時のこと。お義姉さんは、

涙も見せずに最後のお花を兄さんの顔の側に沢山おいて「じゃあ またね」って言った

のよ。私びっくりしたけどお義姉さんらしい、とも思ったから忘れられないです。」

 私は勿論全然憶えていません。

 あの時は悲しさよりも悔しさが私を支えていました。涙なんて出なかった。

半年も経ってから悲しくて寂しくて、それまでに溜まっていた涙が溢れ出し、涙って

どのくらいあるのだろうと、誰に遠慮することもなく、一人で毎日泣き続けました。


 そう。私最後に夫に「じゃあ またね」って言ったんだ。とてもいい言葉だと思う。

 有難う、こんな良いこと憶えてくれていて八年五カ月も経った今それを私に教えて

くれて、嬉しいなあ。義妹にそのことを思い出させてくれた義兄にも心からお礼が

言いたいと思いました。

 朝から真っ青に晴れ上がった春らしいお彼岸の一日でした。

 今頃仲が良かった兄弟で何を話しているのでしょう。

 「じゃあ またね」




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さくらさく  いつの日にか [随筆]

 今日は当地の県立高校の合格発表日です。

ニュースには合格して喜びの笑顔と、感極まった涙の顔が沢山写っています。

自分の番号がなくて、こっそりその場を離れるしかない寂しい生徒の姿はありません。

 この季節もう自分には縁のない事柄なのに、私の心は揺れつい思い出してしまいます。

あれからもう三十年を遥かに過ぎたのに、未だに穏やかならざる私がいます。

 「いつまでも執念深いねえ。」この時期いまだにくだくだいう私に娘はあきれ顔です。

もう時効だから.....とあの時のことを振り返ってみる気になりました。


 娘の高校受験のことで心配した記憶はありません。中学三年間部活のブラスバンドで

ひたすらフルートを吹いていました。三年になって何人かの友だちが塾にいくために退部

しても、フルートに熱中していました。学校も国立大学の付属中学だったのだけど高校は

なかったのでみんな県立を受験する予定でした。

 娘は六年生の一月、急に仲良しの友達が受験するというのを聞いて、自分も一緒にと

塾へ行く暇もなく付属中学を受験して合格し、楽しい中学生活を送っていました。

 私は高校入試の発表の日、会社に出勤し十時のお茶の時間に「ああもう発表だなあ。」

と思ったのをはっきり覚えています。

 三十分程して娘から電話が入りました。いつもと変わらぬ明るい声で「私の番号ないよ、

落ちたみたい」娘は確かにそう言いました。私は何を言っているのか一瞬理解が出来ず

にぽかんとしていました。

 恥ずかしいけれどその後の自分の行動を今でも思い出せないほど動転してしまいました。

そんな筈はないのです。先生だってただの一度も不安そうにな言われたことはなかったから。

 心配している私たちの前に夕方になって帰って来た娘は学校へ報告に行ってみんなと

いろいろ話していたのだと。前日卒業式は終わっていたけど、担任の先生から学校へ報告

に来るように言われていたらしい。

 えっ不合格の人も行ったのだろうか。でもそれはどうしても聞けませんでした。

娘はいつもと変わった様子もなく、言いたいこと聞きたいことを全部飲み込んで、多分引き

つって青ざめた顔の私に、にこっと笑って見せました。

 もうそれからの私は普通ではありませんでした。何かの間違いだと思い続け一人になると

口惜し涙を流し続け、その高校を呪い、先生を恨みに思いました。

夫も寂しそうでしたが娘と私に、人生は長いよ希望を捨てずに前を向いて行こうと、言って

くれました。その言葉さえ私は素直に聞けませんでした。

少し落ち着いてくると私は娘に「出来なかったのか?」「名前を書き忘れたのでは?」「体調で

も悪かった?」次々に問いかけました。

「出来てなかったから落ちたんでしょう。」娘のこの一言に私は我にかえりました。

一番辛くて苦しいのは彼女ではないか。それなのに涙も見せないしっかり自分のせいだと

言いきる娘の様子に、大人として母親としてとても恥ずかしい気がしました。

 不合格を納得出来ない何人かの同級生が浪人をすると聞いた時も、またぞろ貴女もそう

したら....と未練たっぷりに言いました。娘は笑って「私は自分の行く学校で頑張るから。」と

相手になりませんでした。

 仲良しの友もいない、志望したわけでもない高校へ娘は何のくったくもなく.....私にはそう

見えました....三年間元気に通い勉強以外のことにも頑張りました。部活のブラスバンドの

ほかに、ヤマハのポプコンの予選に出たり、読書感想文を書いたり、旺文社の高校作曲

コンクールで優秀賞を頂き、学校賞として大きなステレオが母校に、自分もコンポーネント

のステレオを頂きました。

 この高校だったからこそ、出来た経験だったのではと随分後になって私も思いました。


 そして卒業の年、大学は第一志望の国立外語大学に合格しました。

 遅れて来た「さくらさく」 私の人生て゛一番嬉しかった、待ちに待った瞬間でした。

 
  午後から雨になりました。今日受験に失敗した人たちの涙かもしれません。

でも貴方たちは人生まだ十五年生きただけでしょう。前途は洋々と長いのです。

しっかり前を見据えて進んで行って欲しいと祈らずにはいられません。


 それでも私はまだこの日、心の片隅で胸が疼くのです。
 
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遥かな春に思いを [随筆]

 チャイムの音に玄関に出てみると彼が立っていた。
私を見て少し笑ったように見えた。
「突然ごめん。これ渡したくて....。」
そう言いながら彼は抱えていた鉢植の包みを恥ずかしそうに差し出した。
 薄紫の和紙とセロファンに包まれた桜色の花が見えた。私にはそれが桜草である
ことがすぐに分かった。柔らかい緑色の葉と、愛らしい桜色の花。私が大好きな花。
 私はこの光景が今ひとつ理解出来ぬまま、黙ってそっとその鉢を受け取った。
「ちょっと出られない?」
彼が呟くように言った。
 彼が家に来たのも初めてなら、こんなに親しげな物言いも聞いたことはなかった。
 二人は高校三年生、二年間同じクラスだった。勉強も運動も出来た上に、背が高く
て格好いい彼はクラスの人気者。そんな彼を私は遠くから見ていた。
 三年生になって学習塾の模試の時、偶然席が隣同士になった。私は胸がどきどき
して、自分でもわかるほど顔が火照っているのを感じて慌てた。彼は少し驚いたふう
だったけれど「頑張ろうな」と声を掛けてくれた。
 それからの私はもうどんどん彼のことが好きになり、教室で目があったりするともう
自分でもどうしていいか分からないほど取り乱しそうになった。
 ただそれだけのことで彼の態度に変わったところはなく、私はすぐに自分の片思い
に気が付いた。
 お互いに東京の大学を受験するという大きな目的が目の前にあり、私も勉強に打ち
込むしかなかった。
 一月末私は第一希望の私立女子大に合格した。学校の掲示板でそのことを知った
彼は教室で誰よりも早く
「おめでとう。やったね、僕も頑張るよ。」と言ってくれた。それだけで私は天にも昇る
心地だった。
 彼も私のこと気にかけていてくれたのでは....。私は少し希望を持った。なんとか彼を
応援出来ないかと考えた末、市内の神社を回って彼の為に祈り、四個もお守りを買い
「頑張って!!」と小さなカードを添えて彼の家のポストに入れた。
 彼が難関の国立大学に合格したことはすぐに知った。私は自分の事のように嬉しくて
一人で泣いた。おめでとうをいう機会もなく一週間、勿論彼からの連絡もない。お守りを
送った時もそうだった。
 私はそれでよかった。自分の気持ちが通じてさえいれば.....。そして今日突然の訪問
だった。
 二人は初めて並んで歩いた。私は夢心地だった。水色の空、少し冷たい二月の風も
暖かく感じた。自分の想いが彼に届いていたのが嬉しかった。
 彼は目を輝かせて大学では頑張って夢を叶えたいと言い、君の応援が嬉しく励みに
なったのだと言った。
「桜草は僕のお礼の気持なんだ。本当に有難う、好きな花なんだろう。いつかクラスの
日記に書いていたから。」
彼の優しい気持ちが真っ直ぐ私の胸に入って来た。
 大学に進んだ二人は、しかし再び会うこともなく私の恋は終わった。
風の便りにきく彼は勉学に没頭しているようで、私にはどうしても声をかける勇気がな
かった。

 二人の間に四十年近い月日が流れた。

 私は今でも桜草の花に彼の面影をみている他愛ない普通のおばさんになった。
彼は優秀な学者として今アメリカの大学にいるという。

 
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